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「リアルのゆくえ」追記 [読書]

読み終わった本の中に気になる話があった。ちょっと僕の感じているのとはちょっと違う、と思ったのでそのことを書く。

第2章で作家性、つまりはオリジナリティの議論になるところ。「ほしのこえ」や「デ・ジ・キャラット」「ガンダム」「エヴァンゲリオン」などが議論の中であげられる。そしてその議論の途中に、情景の描写や感情表現のための言葉を手持ちの「データベース」から取り出して並べることで創作する、1970年代以降そういうやり方が増えているとして、それまでの自然主義文学と対比させられている。

東 「ライトノベルの文体にしても、よく言われる批判は「行間が読めない」ということです。しかし、では行間はなにかと言えば、要は言葉と現実の齟齬なわけです。何らかの現実を描こうとしてるいるんだけど、言葉がそれに追いつかないという不可能性の雰囲気。....だからそれがライトノベルにないのは当然で、彼らは漫画やアニメの無意識のデータベースから描写を取ってきているのだから、文章は現実そのものなのですよ...」
大塚「行間は対象と言語の齟齬であると同時に、作者と現実の齟齬、受け手とテクストの齟齬という局面でも成立していくわけでしょ....」
二人とも現実を言葉で捉えようとするその姿勢が自然主義文学であり、データベースから言葉を選んできて小説を作るのとは対極にある、というような議論を展開して、その点では二人の認識は一致している。

僕はそういう認識には違和感を覚える。文学はデータベース的な創作しかあり得ない、と僕は思う。これは言葉(言語)に対する考え方の違いがあるように思うので、僕の思うところを書いておこうと思う。

僕は言葉(言語)というものはまったくあいまいあやふやなものでほとんど役に立たないものだと思っている。

言語の持っている基本的な機能として言えるのはふたつだけ

  1. これは「A」である(命名)
  2. 「A」は「B」である、あるいは「C」ではない(類別)
だと思っている。これ以外の機能を言語は持っていない。

命名はものやことがらに「言葉」を割り当てる機能。同じ言葉が複数のものに付与されることも、ひとつのものに複数の言葉が付与されることもある。言語のあいまいさによってそれが許される。

もうひとつの類別には本当は「これこれの意味において」という限定詞がつくはずだが、それを表現する手段を言語は持っていない。これも言語のあいまいさによって限定詞なしでの表現が許される。限定詞は多くの類別の例から推測されるにすぎない(「卵」「ダンゴムシ」「尻」「月」を同値と見る類別から「外形形状が丸いと言う意味において」を推測する)。

いやそんなことはないちゃんと筋道だった論理や感情表現や物事の描写ができるではないか、というかもしれない。僕はそういったことは厳密にはできていないと考えている。「命名」と「類別」のふたつの組み合わせと、あとは曖昧さにごまかされているに過ぎない。

もちろんこれでは最も簡単な三段論法さえ表現できない。そう、その通り、不可能である。でも二通りの類別と多くの命名をその類別に当てはめることで三段論法を推測することはできる。言語の機能とは、そういうものだと僕は考えている。

さて、ものやことに対する命名の累積と、それらの類別による関係の表現だけが言語の機能である、としよう。これはすなわち彼らの言う「データベース」である。もともと言語はデータベースとしての機能しか持ち合わせていなかった。その意味において「自然主義文学」は名前が既に矛盾している、と僕は思っている。

前にもちょっと書いたけど、人間は命名されたものやことしか見えないし感じない。周りを妖怪にぎっしり取り囲まれていてしょっちゅう尻を触られたり頬を舐められたりしていても、その妖怪に名前が無いかぎり見ることも触ることもできない。

現代の日本は名前のないものがどんどん増えて命名(彼らの言う言語化)が追いついていない。名前のない妖怪に囲まれて暮らしているのにデータベースには新規に登録されることがないうえにどんどん妖怪は増えていく。したがってデータベース全体が被覆する集合が小さな部分集合でしかなくなって現実に対して相対的に収縮していく。データベースによって表現可能な範囲がどんどん狭くなっているのにそれ以外が見えないせいで、その部分集合が全世界だと思い込んでいる。

行間のない小説が増える、というのは現実との乖離がなくなっているわけではない。表現に使用するデータベースを古いまま使い回しているせいでデータベースが相対的に収縮しているにすぎないし、またそのことに共通のデータベースを使用する人の集合としての社会が自覚的でないということにすぎない。

囲まれている妖怪が違っていても、本当は小さな部分集合を共有しているに過ぎないのに世界を共有していると思い込んでしまい、齟齬や断絶を感じることになる。実は妖怪を含めた環境は全然違っているというのに。

ようするに彼らの言うデータベースによる小説というのは僕に言わせれば今に始まったことではなくて、古今東西の文学、そしてあらゆる言葉を使う創作すべてがそうである。

やはり彼らは言論人として言語に対する(すなわち人間の思考に対する)期待が過大なんだろう、と思う。それは言語によって意味を表現できると言う幻想に基づいていると感じる。僕はそれは厳密には不可能だと思っていて、一番うまくいって数学のような形式論理が展開できるだけだと思う。だから現代日本を代表する言論人ふたりが議論してまったく噛み合ないのも当然だと言える。そう考えるとそれは彼らの責任ではない。

ではどうするか、と言えば結局データベースを充実してその被覆が現実全体に一致するように地道に言語化していく、ということにつきる。従って最終的な「なにをする必要があるか」の点においては彼らと結論は一致する。

こんな話は、ひょっとしてあたりまえなの?それとも逆に論駁され尽くしてるの?よく知らないのでわからない。


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