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音楽と言語 - その3 [音楽について]

前の続き。

先日トラックバックをもらった方のブログは非常に面白い。言語に関する話は基本的に賛成。この方のサイトは量も膨大で読んですぐわかるというわけにはなかなかいかないけど、自身も言語の専門家ではなく理学系で、僕でも理解しやすい。少なくとも先日読んだ本よりずっと説得力を感じる。

この方は言語を進化の道筋から説明しようとする。チョムスキーをあからさまに否定はしないけれど自転車に乗れるようになるのと同じ「言語の使い手が身体運動の記憶として覚えている語の連結手続きの集合が文法」であると書かれていて、まさしくその通りだと僕も思う。

この方の主張では「発音」という「動作」から言語が発達して、特に人間の「社会性」を重要視している。僕は環境に関する情報処理というソフトウェアから言語ができたと思っているが、その根拠は僕という特に社会性に乏しいサンプルひとつだけの観察によるものなので偏っているかもしれない。しかし「言語」と「動作」の結びつきは僕もその通りだと思っていて、音楽が言語であるという主張の根幹である。それを今日書くことにする。

4  音楽言語

ということで僕が言いたいのは「音楽も言語である」ということである。これは、何度も言うが象徴的な意味ではなくまた比喩でもなく、まさしく文字通りの意味である。

我々は音楽を「音楽として」聴くことで自分のデータベースを参照してこれまでのデータと比較し、新しいデータを追加していく。音楽を単なる音響としてではなく無意識のうちに和声やメロディやリズムや音色といったものに対応するシンボルを頭の中に作り出し、それを集積させる。それ自信が別の何かを表しているわけではないが、いろいろなものが集積すると言葉と同じように「類別」ができあがってくる。

4.1  音楽言語の「品詞」

もともと音を発したり聴いたりすることは動作や感覚の刺激を伴う。楽器を扱って音楽を鳴らすためにはある程度の習熟が必要で、これには小脳が学習するすることで決まった動作が可能になり、それが確立するとシンボルが結びつけられる。音を聴くこともまったく同じである。

音楽言語のシンボルは従って動作や感覚に結びついている。つまり品詞で言えば「動詞」や「形容詞」や「副詞」だけしかない。「名詞」として機能するものは音響そのものを表すものしか存在しない。

名詞無しで論理を表現するのは困難である。だから音楽に論理を感じ取るのは難しいし、それ以外にも「誰が」という限定のない話を理解するのも難しい。しかしだからといって何も表現することができないか、といえばそうではない。

19世紀のいわゆるクラシック音楽は高度化細分化して複雑になった。それまでの「歌」では内容を歌詞に込めることができた。従ってそれ以外の部分は単純でかまわなかった。ところが、歌詞を持たない純器楽曲が発展して、音楽言語の発達に重要な影響をもたらした。歌詞のない音響の連鎖でいろいろなことを表現したい、という動機が発達を促したのだろう。

5  音楽言語の語彙

いろいろなレベルの語彙が存在する。
語彙としてどこまで分解できるか、は身体的な動作がどこまで分解できるか、というのと同じである。例えば人差し指をあげる動作でも、なにかを指し示したいときにする場合にはほとんど無意識的に行われるが、人差し指だけ立てて他の4指を握る動作を意識すると、筋肉への力の入れ方などまで注意することになる。この場合には指し示す動作とは別に個別のシンボルが存在する、と言う感じがする。

音楽の語彙もおそらくそうだろう。ひとつの音に対応するシンボルもあるだろうし、連続したスケールのようなものに対応するものもあるだろう。リズムや音色でもそうだろう。ピアノの練習で、ひとつのスケールをいろんな調で繰り返すことをやる(ピアノに限らない)が、これはそれぞれの調のスケールを小脳に覚えさせるという作業であって、小脳がひとまとまりの作業として記憶できた動作はおそらく自動的に対応するシンボルが作られるのだろう。シンボルを呼ぶことでその動作を起動することができる。

そうやって訓練していけばいろいろなシンボルが蓄積される。もちろん聴くことによっても訓練され語彙が蓄積される。

そして、人間は一人々々がバラバラではなく通低している。語彙の集積が新しい類別が作られるが時代を共有していることによって人それぞれが持っている語彙がオーバーラップする。それによる共有された類別は音楽に現れる。演奏することによって時代を表現し、聴くことによって時代を感じ取る。短い人生で同じ時間を共有した人間たち固有の語彙が叩き上げられることになる。

5.1  語彙の例

音楽の語彙の例として、音楽にしかない特徴的なものをあげておく。それは「転調」である。例えばバッハのホ長調のヴァイオリンパルティータのプレリュードを見てみる。この曲にはただのスケールと分散和音でできているように見える。少なくとも前半はそうで、そこに解放弦の響きやひとつの分散和音がいくつかの声部に分かれているように聴こえるといった音響的な面白さが含まれているがそれだけである。ところが後半になるとスケールはよじれて転調していき、分散和音ははじめの調とは違った響きを持つようになる。これも単なる違った調の接続ではあるけど、我々はその中に変化と言う以上のドラマを感じることができる。バッハはスケールと分散和音の音響的な面白さを提示して、単純な音響的快さを感じ取らせる。それは単純なだけその後の変化が大きく感じられる。そうやって「音響の心地よさ」を超える「物語」を聴き手は感じ取るのである。

その後の時代に「転調」の語法は拡大される。シューベルトの器楽曲には美しい転調がよくでてくる。聴き手はこれにやはり物語を感じるがバッハと違って流浪や彷徨といった、これからどうなるのかわからない不安で心もとなげな印象がある。さらにマーラーの第6番の交響曲のフィナーレなどでは転調が次々現れてどんどん遠隔調へ移っていってしまう。これには変転する根無し草の人生といったものを連想させる。この曲を聴いてましくマーラーの人生そのものだという以外の印象を持つ方が難しいぐらいである。

これを聞き取るにはある程度の語彙、つまりデータベースの叩き上げが必要ではある。しかしいろいろな曲を聴き、データベースの集積があれば誰からも教えてもらわなくても聞き取ることが可能になる。これは知らない言葉を覚えるときと違いはない。

5.2  語彙の例2

クラシック音楽に限ったことではない。例えばジャズのモード奏法は、それまでの歌詞を伴った歌を変奏しているだけではできなかった表現が可能になった。12、16、32小節と言った歌の短いまとまりが長い文節による物語を阻害していたが、モードの手法を使って即興によりながらもっと息の長い起承転結が表現できるようになった。これもそれを語彙として持っていなければどこが尻やら頭やらということになってしまう。

6  身体言語

音楽は「名詞」を持たない。もともと動作に結びついた言語である。従って身体性というのが「言葉」よりも重要になる。特に発音には手や足の動きだけではなく呼吸や腹筋背筋などの内蔵感覚が欠かせない。いわゆるフレージングは一連の内蔵感覚である。自然音と人間が発する楽音との違いは身体性だと思っている。

身体性をともなわない音響は理解が難しい。そういう音響がもともとの語彙に含まれていないからである。例えばメシアンが使ったオンドマルトゥノは電気で音を出す。そこに発音の際の呼吸や高い音のための筋肉の緊張といった身体的な動作は不要である。そのためオンドマルトゥノの音はオーケストラから浮かび上がるがアニメの効果音のような印象しか与えず、音楽言語として聴き取るのは難しい。

電気で音を増幅するエレキギターもそういう運命をたどるかもしれなかったが、エレキギターは独自の奏法で身体性を取り戻した。チョーキングでは筋肉の緊張と弛緩が感じ取られ、アンプを歪ませることで強いピッキングと弱いピッキングとの差がフレージングを表現するようになった。ロックでは電気による増幅を使いながら身体性は失わないようにする文化がある。これは音楽の語彙の成り立ちと無縁ではない。

7  「言葉」との関係

言語の主役格である「言葉」は、もともと「歌詞」として音楽に結びついていたが、音楽言語の語彙が増えるにつれて別のデータベースをなすようになってきた。「言葉」と「音楽」は語彙としてオーバーラップする部分もあるが対応するシンボルがない部分もある。日本語と英語でも翻訳不能な表現がある。その多くは対応する単語がない、という場合である。

その場合、いろいろな言葉を並べて近い「コンテクスト」を作り出す、ということになる。音楽評論とはそういうものだ。下手をすれば「群盲像をなでる」になってしまうけどうまく追いつめることができれば、その音楽語彙を持つ人は膝を打ってその通り、と言うだろうし持たない人にはその語彙がどういうものかを伝えることができる。

ところで素人評論で、まるでプロの演奏家がするような言葉を使って語られているのをときどき見かける。僕はあれは小説を読んで文体がどうの使う単語がどうのと言っているのと同じに見える。まるでプロミュージシャンが「最近リードの調子がよくないのだが、お前はどこで買っているのか」「私はどこどこのなんたらという店のやつを使っているがこれがなかなか調子がよろしい」(とり・みき「少年のための天才漫画家入門(実技編PART1)」から)というような話を聞き手がしているように見えてこれは僕には滑稽である。小説に中身があるのと同じで音楽にも中身がある。それを語ることが素人の特権であり役目でもあるのに。

8  それで?

僕は音楽は他人の人生を覗くことができる「覗き穴」だと思っている。たいていの作曲家は音楽だけに人生を捧げた、ある意味で偏った人生を送った人たちである。我々は他人の人生を主観的に見ることはできないが、バッハやハイドンやモーツァルトやベートーヴェンや、さらにシューベルトやマーラーやバルトークやショスタコーヴィチの音楽には、彼らが何を思ってどんな生活を味わったか、が綴られていて、それを言語として聴き取ることで彼らの人生を内面から感じることができる。逆に言えばそういう聞き方のできない作曲家はつまらない、ということになる。
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コメント 2

OT

「5.1 語彙の例」は実際に音楽を聴き、『ふむ、これが「よじれ」で「変調」で・・・』という風に確認しながら読みました。
今までの話からすると、この行為は音楽言語を日本語に翻訳しているってことですかね。
ところで音楽、絵画、料理といった、「芸術」にくくられるものは、みな言語ではないかという気がしてきました。
見当違いかもしれないです。読解できてないかも・・・。
by OT (2014-03-09 22:59) 

decafish

コメントありがとうございます。
もちろんすべての音が「ことば」に翻訳できるわけではないので、どこか似てる、とかなんとなく近い、という程度ではありますけど、オーバーラップする部分はあるので、あたらずとも遠からずだと僕は思っています。
絵画や彫刻も同じですし、僕にその感受性がないのでよくわかりませんが、おっしゃるように料理もそうだろうと思います。
面白いと思うのは、小説なんかの文学も「ことば」を使いながら「ことば」に翻訳不可能な「文学言語」とでもいうようなものを扱っているということです。それは単に決まり事の集積を超えたボキャブラリを形成している、と僕には思えます。なんか変な言い方だとは思いますが。
by decafish (2014-03-11 21:28) 

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