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バッハ「ロ短調ミサ」 [音楽について]

女房から今日チケットが取れたと連絡があった。僕のお気に入りの演奏家であるヘレヴェッヘが6月にヴォカーレヘントをつれて日本に来る。そのお題がなんとバッハのロ短調ミサである。ヘレヴェッへの初来日ではマタイ受難曲をやったんだけど、僕が知ったのは帰ったあとだった。あのときは本当に悔しかった。そのあと、すみだトリフォニーでやったときはかぶりつきで聴いたけど、お題が何だったかもう忘れてしまった。もうこれは何があっても聴きにいかなければ、聞き逃すと絶対後悔する、と思っていた。半年先だけどもう今から楽しみ。

子供の頃はバッハの合唱曲は退屈だった。それよりもブランデンプルグや平均率や無伴奏ヴァイオリン、無伴奏チェロ、それからもちろんリュートなんかのほうがずっと面白と思っていた。

ところが歳をとってから改めてバッハの合唱曲を聞き直すと面白さがわかるようになってきた。大規模な受難曲や多くのカンタータがひしめく中で最初に気に入ったのがこのロ短調ミサで、今でも一番好きな曲であることに変わりはない。

ところで、このロ短調ミサは長いせいもあってバッハにしては求心力に欠け、特に後ろに行くにしたがって散漫になっていくような印象がある。一方、マタイ受難曲は音楽的な内容といい、緊密な構成といい、キリストの受難と言うキリスト教徒ならよく知っている台本を音楽が生々しく盛り上げるその迫力といい、バッハの最高傑作であるということに異存はない。しかしどうも僕には受難曲はあまりに血なまぐさくて恐ろしい、という気がどうしてもする。これまで僕はマタイ受難曲はなかなか生で聴く機会もなく、録音をいっぱい買ってしまったがそう気軽に何度も聴く、と言う気にはなかなかなれない(初めてちゃんと聴いたとき、やっぱり毛唐は血の気の多い野蛮人や、と思った)。それに比べるとロ短調ミサは純粋な音の運動の喜びにあふれていて、ただ楽しむということができる。

バッハには数はそれほど多くないけどラテン語の歌詞を持ったミサやマニフィカトがいくつかある。ロ短調ミサはその中でひとつだけ異様に長くて編成の規模も大きい。ラテン語はカトリックの専売ではなくて、当時はプロテスタントの教会でもラテン語のミサを歌うことはあって、今でも宗派によってはラテン語が残っているらしい。僕は仏教徒なので詳細はよく知らない。

カンタータは教会のなかで日曜の説教の合間に演奏されたり、聖金曜日には特別な受難曲が演奏された。これらの曲は教会に属するバッハが民衆への教化のための装置と言う側面も持っていて、すべて歌詞はドイツ語で歌われて聖書の言葉そのものや聖書に出てくる物語をもとにした台本が使われている。またオーケストラもそのときどきの教会の事情で編成が決まっているし、それらの曲に含まれるコラールは、民衆たちが普段から教会で毎年歌っているものが多く使われている。カンタータや受難曲はつまりバッハが民衆の方を向いて書いた曲である。

その一方、ロ短調ミサは部分的にではあるけどザクセン選帝侯に献呈されているらしくて、成り立ちとして領主のための典礼用の曲だった。ミサ曲はラテン語を歌詞に使っていて少なくとも言葉としては民衆には理解されない。バッハはカンタータの対極としてミサ曲を書いたのだと思える。つまり、領主に捧げるための曲ではあるが、その音楽は領主を超えてその背後の神に対する捧げものであるというふうに聴こえる。

ロ短調ミサは、バッハ自身が番号付けをした4つの部分からできている。半音階を含む重苦しい(でもマタイの導入ほどではない)フーガの「Kirie Eleison」で始まる。この重苦しい雰囲気はその後の第2部の先頭の曲「Gloria」を輝かしいものにする効果がある。歌詞はわからなくても導入となる第1部の後、第2部は神を称揚し、第3部は人々の幸福を祝う調子がその音楽から伝わってくる。

さっきも書いたけど、ミサ曲はラテン語の歌詞で言葉としては民衆には伝わらない。そこでバッハはそのかわりに音響として伝えようとしたのではないか、と思えるほど音響的に美しい曲が並ぶ。それぞれの曲はすでに作曲されたカンタータなどをもとに歌詞に変更を加えたものが多くなっている。これはバッハがカンタータのほうを重要視してミサには使い回しをしたようにも見えるが、僕はそうではなくて集大成としてこれまでの自分の作品の中から特に音響的に優れた曲を選んで、ようするに「いいとこどり」をしようとした結果だったんではないかと思っている。

このミサは複雑で大規模な合唱曲が特徴ではあるけど、僕はその途中に挟まれる独重唱アリアが好き。特にカンタータや受難曲にはあまり多くない二重唱が1、2、3部それぞれに一曲ずつ含まれている。これが大変美しくて大好きである。

ふたつのソロがハモったりカノンになったり、同時に違う歌詞を歌ったりする。また、それぞれが非常に自由なフレージングで絡み合ったり、音程やリズムが衝突したりする。通奏低音とソロ楽器せいぜい1本の伴奏も、リズムをキープしながら歌の前に後ろになってサポートする。そこには純粋な音響の運動の面白さ美しさがある。まるで物理現象である音が意志を持って、自分の喜びのために自ら鳴っているようである。

もちろん合唱も美しい。特に好きなのは「Credo」で、通奏低音がジャズのベースのようにビートを刻み、それに乗って合唱によるグレゴリオ聖歌風のメロディを持ったフーガが展開される。この曲が終わってしまうと、もっと聴いていたかったのに残念、という子供じみた感慨を持ってしまう。有名な「Gloria」の「3」の洪水からト長調の落ち着いた「Tera Pax」への移り変わりの、はっとするようなちょうど百小節目の断絶(聴いていて本当にいつもここでどきっ、とする)や、そのコラール風のメロディを引き継いだフーガの陰影に富んだ表情も本当に美しい。

ドイツ語は学生のとき2年もかけて勉強したとは思えないほどなんにもわからない。しゃべれるドイツ語は「Bitte!(英語でPlease)」だけである。30年前に出張で行ったフランクフルト近郊の田舎町では、若い人は英語がしゃべれるのに甘えて結局、ドイツ語を教わらずに過ごしてしまった。今となってそれをすごく後悔している。受難曲やカンタータはどうしても言葉の壁があって最後には「僕は本当にこの曲を理解しているのだろうか」という思いがつきまとう。しかしこの「ロ短調ミサ」だけはその思いから解放される。その意味で僕にとってバッハの宗教曲の屈指の名曲である。
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エトワール

まったく同感であり、実に素晴らしいです。

エトワールも、ドイツ語は大学で2年間やったけど、「ボーフェル、コーメン、ジー」、「ビー、ハイセン、ジー」しか覚えていません。(スペルも忘れた。発音もあやしい)

でも、ステレオが貧弱(デノンのミニコンポとインフィニティのスピーカー)なのでバッハの器楽曲ばかり聴いているこの頃です。
by エトワール (2011-01-15 09:18) 

decafish

コメントありがとうございます。
ヴェルディのオペラを聴くためにイタリア語を勉強しようとは思わないのですが、ドイツ語はバッハモーツアルトシューベルトワーグナーを聴くために勉強したいと、いつも思います。
ただし、思うだけですけど。
最近はショスタコーヴィチを聴くためにロシア語を勉強したいという気もしています。やっぱり気がするだけですけど。
by decafish (2011-01-15 21:07) 

decafish

書き忘れました。自慢するわけではありませんが、再生環境は僕のほうが貧弱です。なにせこんな
http://decafish.blog.so-net.ne.jp/2008-03-11-1
です。うう、いいスピーカが欲しい...
by decafish (2011-01-15 22:11) 

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