シェーンベルクによる「大地の歌」編曲 [音楽について]
今日夕方、女房とSkypeで話して、一昨日のシュタイアーのゴールドベルク(音楽堂ではなくてトッパンホールだった)はイマイチだったらしい。女房は演奏と客の態度の両方にダメ出ししてた。最近なんだかコンディションの悪いコンサートに出会うことが多いような気がする。誰もがいつも完璧な状態ではないのは当然だけど...
ところで話は変わって、こないだから女房に録音してもらったマーラー「大地の歌」のシェーベルク版をずっと聴いていた(女房の話ばかりしてるようだな)。演奏は1月8日にアメリカのセントポールでエド・デ・ワールトがやったやつ(ソプラノ/サーシャ・クック、テノール/ウィリアム・バーデン、セントポール室内管弦楽団)。演奏もなかなかいい(Nicol Mattやヘレヴェッヘの録音よりもいいかも)けど、実はシェーンベルクの編曲が非常に面白く、マニア心をくすぐるものであることに気がついた。どこがそんなに面白いのか、を書くことにする。
この「大地の歌」の編曲版の演奏をぼんやり聴いていると、音色は大オーケストラの原曲とあまり変わらないように聴こえる。ちゃんと原曲のオーケストラ版と聴き比べてみて、トゥッティのフォルテシモ以外の部分ではほとんど区別がつかない場合が多いどころか、1本しかないはずのホルンがどういうわけか2本でハモっているように聴こえる、というような不思議な部分がいっぱいある。いったいこれはどうしたことか?何度もよく聴くと、実に巧妙な編曲であることがわかってきた。
シェーンベルクは編曲の基本姿勢として
これをシェーンベルクはフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各1、ピアノ、ハルモニウム、打楽器担当1、弦楽四重奏にコントラバス1の13人と、独唱者2の合計15人で演奏するように編曲した。
ハルモニウムというのはよくわからないが、リードオルガンのことのようである。5年ほど前にプレガルディエンと白井光子を独唱に起用した演奏を女房と聴きにいったことがあるが、そこでは「マタイ受難曲」で2台目のオルガンとして使われるような、アップライトの鍵盤楽器が置かれていた(あのときは白井が4楽章のクライマックスの直前で入りを間違えたりして実に緊張感あふれる(?)演奏だった)。
ようするに木管楽器(含ホルン)は各1本ずつ、金管楽器はすべて省略、弦楽器は最小限の1人ずつにして、逆に原曲にはないピアノとハルモニウムが補完のために追加されているということである。
その音を聞く限り編曲はある程度機械的に行われている。つまり、弦楽五部は完全にそのまま、木管とホルンもそのままで、金管はピアノで置き換え、打楽器のうち決定的なもの以外は省略あるいはピアノで代用するようになっている。
ところが、マーラーのオーケストレーションは複雑でトゥッティ(全合奏)以外の部分でもいろいろな楽器がからみあっている。木管楽器はソロもあれば2本でハモることもあるし3本で和音を鳴らすこともある。ひとつのメロディラインが違う楽器に受け継がれたり、音色や音域の違う対旋律が絡んだり、弦楽器でさえdivisi(ひとつのパートを複数にわけて別の音を演奏する)になっている部分が多くある。これを機械的に置き換えたのではスカスカの音響になってしまう。
そこでシェーンベルクは考えた(のだと思う)。
金管を全部廃止してピアノに置き換えてしまうのは音色的にはかなりの割り切りのように思えるが、金管の場合は音量のバランスが悪くなってしまうというのと、シェーベルクにとっては金管はアタックが重要だという認識なんだろう。トロンボーンの密集和音がピアノの左手和音に置き換えられている部分は、聴いてみるとそこそこ成功していることがわかる。さすがにトランペットソロがピアノに変わると細々とした印象になってしまっているが、これは割り切りだろう。
同一楽器の複数本のハモりはどうするか、というとこれが結構ミソ。つまりフルート2本の部分を、上声がフルートで下声がクラリネットで置き換えるとどうなるか。これが気をつけて聴かないとフルート2本と区別つかないようにできる、という事実である。
また、音を聴いたときどの楽器かというのを聴き比べようとすると、その印象の多くはアタックの音色に支配される。従ってアタックのある楽器で発音してからアタックのない楽器で置き換えてもあまり気がつかない。また平行進行の下声がアタックのない音を使えば、同一楽器複数本と区別がますますつきにくくなる、ということである。
具体的に言えば、同一楽器複数本の平行進行の場合、
とすると、上声の方の音色に印象が引きずられるということである。またどの楽器も下声にハルモニウムを使うこともできる。ハルモニウムにはアタックがなく、下にまわると音色がごまかされやすい。
聴いていてハルモニウムが活躍しているところに気がつくことは全くない。まるで鳴ってないのではないか、と思えるほどである。しかしハルモニウムは
こうすることで、声部を減らさず、明らかな音色の違いを発生させない編曲にすることができる。しかしもちろん木管楽器の音色はそれぞれ個性的で、なじんでくれないことが多いが、これをシェーンベルクはそれぞれの楽器が音域によって音色が変化することを利用して実にうまくごまかしている。原曲を先に聴いていると、よけい思い込んでしまうという面もあるかもしれない。
原曲にはメロディが楽器から楽器に受け渡されるシーンがかなりの数存在する。そういうところは例えば、ある楽器がソロを吹いていて、別の楽器にソロ渡したらすぐその下にまわって下声を吹く、なんていうことをやっているような部分もある。そうやって使い回しているとどうしても楽器が足りなくなるところもあって、そういうところではしょうがない、最後のパートはピアノになったりしている。
次は具体的に譜例をあげて指摘する。
ところで話は変わって、こないだから女房に録音してもらったマーラー「大地の歌」のシェーベルク版をずっと聴いていた(女房の話ばかりしてるようだな)。演奏は1月8日にアメリカのセントポールでエド・デ・ワールトがやったやつ(ソプラノ/サーシャ・クック、テノール/ウィリアム・バーデン、セントポール室内管弦楽団)。演奏もなかなかいい(Nicol Mattやヘレヴェッヘの録音よりもいいかも)けど、実はシェーンベルクの編曲が非常に面白く、マニア心をくすぐるものであることに気がついた。どこがそんなに面白いのか、を書くことにする。
2 シェーンベルクによる室内合奏への編曲
シェーンベルクは啓蒙および教育目的で、他人の大きな編成の曲を比較的小さな編成に編曲した。第1次大戦後の疲弊したオーストリアで一定レベル以上の演奏家を集めることが難しかったという側面もあったと思われるが、多くが彼の「音楽私的演奏協会」で演奏するためだったようである。このマーラーの「大地の歌」もそうだったが、この編曲はその完成前に演奏協会が解散してしまった。彼の死後、リーンという人が最終的に完成させたらしい。この「大地の歌」の編曲版の演奏をぼんやり聴いていると、音色は大オーケストラの原曲とあまり変わらないように聴こえる。ちゃんと原曲のオーケストラ版と聴き比べてみて、トゥッティのフォルテシモ以外の部分ではほとんど区別がつかない場合が多いどころか、1本しかないはずのホルンがどういうわけか2本でハモっているように聴こえる、というような不思議な部分がいっぱいある。いったいこれはどうしたことか?何度もよく聴くと、実に巧妙な編曲であることがわかってきた。
シェーンベルクは編曲の基本姿勢として
- 原曲の音色を維持する
- 声部は減らさずすべて再現する
- 最小限の楽器のみを使う
2.1 編成の比較
「大地の歌」の場合、原曲のスコアの1ページ目から楽器を拾ってくると、ピッコロ1、フルート3、オーボエ3、クラリネット3(Es管1+B管2)、バスクラリネット1、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、ハープ2、各種打楽器、弦楽5部という大掛かりなものである。これ以外に4楽章の中間部にバスチューバ1(たった6小節!)とティンパニ、フィナーレにマンドリン、チェレスタ、銅鑼なんかが追加される。普通のオーケストだと60人を超えることになる。これをシェーンベルクはフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン各1、ピアノ、ハルモニウム、打楽器担当1、弦楽四重奏にコントラバス1の13人と、独唱者2の合計15人で演奏するように編曲した。
ハルモニウムというのはよくわからないが、リードオルガンのことのようである。5年ほど前にプレガルディエンと白井光子を独唱に起用した演奏を女房と聴きにいったことがあるが、そこでは「マタイ受難曲」で2台目のオルガンとして使われるような、アップライトの鍵盤楽器が置かれていた(あのときは白井が4楽章のクライマックスの直前で入りを間違えたりして実に緊張感あふれる(?)演奏だった)。
ようするに木管楽器(含ホルン)は各1本ずつ、金管楽器はすべて省略、弦楽器は最小限の1人ずつにして、逆に原曲にはないピアノとハルモニウムが補完のために追加されているということである。
2.2 編曲の特徴
楽譜に手が届かない(最近はなんでもインターネット経由で手に入るが、この編曲には学習用のポケットスコアなんかは出ていない)ので詳細の確認はしていない。従ってこの後の話は耳コピによるものである。間違っているかもしれない。その音を聞く限り編曲はある程度機械的に行われている。つまり、弦楽五部は完全にそのまま、木管とホルンもそのままで、金管はピアノで置き換え、打楽器のうち決定的なもの以外は省略あるいはピアノで代用するようになっている。
ところが、マーラーのオーケストレーションは複雑でトゥッティ(全合奏)以外の部分でもいろいろな楽器がからみあっている。木管楽器はソロもあれば2本でハモることもあるし3本で和音を鳴らすこともある。ひとつのメロディラインが違う楽器に受け継がれたり、音色や音域の違う対旋律が絡んだり、弦楽器でさえdivisi(ひとつのパートを複数にわけて別の音を演奏する)になっている部分が多くある。これを機械的に置き換えたのではスカスカの音響になってしまう。
そこでシェーンベルクは考えた(のだと思う)。
- トゥッティ以外の部分の全体の音色の印象は木管楽器で決まる
- 木管楽器の音色はアタック(音の出はじめ)で決まる
- 平行進行(いわゆるハモり)は上声(音程の高い方)で決まる
金管を全部廃止してピアノに置き換えてしまうのは音色的にはかなりの割り切りのように思えるが、金管の場合は音量のバランスが悪くなってしまうというのと、シェーベルクにとっては金管はアタックが重要だという認識なんだろう。トロンボーンの密集和音がピアノの左手和音に置き換えられている部分は、聴いてみるとそこそこ成功していることがわかる。さすがにトランペットソロがピアノに変わると細々とした印象になってしまっているが、これは割り切りだろう。
同一楽器の複数本のハモりはどうするか、というとこれが結構ミソ。つまりフルート2本の部分を、上声がフルートで下声がクラリネットで置き換えるとどうなるか。これが気をつけて聴かないとフルート2本と区別つかないようにできる、という事実である。
また、音を聴いたときどの楽器かというのを聴き比べようとすると、その印象の多くはアタックの音色に支配される。従ってアタックのある楽器で発音してからアタックのない楽器で置き換えてもあまり気がつかない。また平行進行の下声がアタックのない音を使えば、同一楽器複数本と区別がますますつきにくくなる、ということである。
具体的に言えば、同一楽器複数本の平行進行の場合、
| 上声 | 下声 |
| フルート | オーボエ、あるいはクラリネット高音域 |
| オーボエ | フルート低音域、あるいはクラリネット |
| クラリネット | ファゴット、あるいはオーボエあるいはフルート低音域 |
| ファゴット | クラリネット低音域 |
| ホルン | ファゴット高音域 |
聴いていてハルモニウムが活躍しているところに気がつくことは全くない。まるで鳴ってないのではないか、と思えるほどである。しかしハルモニウムは
- 同一楽器の3本目
- 弦楽器のdivisiの下パート
- 金管楽器の代わりのピアノの延長(サステイン)
こうすることで、声部を減らさず、明らかな音色の違いを発生させない編曲にすることができる。しかしもちろん木管楽器の音色はそれぞれ個性的で、なじんでくれないことが多いが、これをシェーンベルクはそれぞれの楽器が音域によって音色が変化することを利用して実にうまくごまかしている。原曲を先に聴いていると、よけい思い込んでしまうという面もあるかもしれない。
原曲にはメロディが楽器から楽器に受け渡されるシーンがかなりの数存在する。そういうところは例えば、ある楽器がソロを吹いていて、別の楽器にソロ渡したらすぐその下にまわって下声を吹く、なんていうことをやっているような部分もある。そうやって使い回しているとどうしても楽器が足りなくなるところもあって、そういうところではしょうがない、最後のパートはピアノになったりしている。
次は具体的に譜例をあげて指摘する。
2011-02-11 21:12
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)


コメント 0