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シェーンベルクによる「大地の歌」その2 [音楽について]

昨日の続き。マーラーの交響曲「大地の歌」をシェーベルクが室内管弦楽団用に編曲したのがめちゃ面白い、と言う話。

具体的な例を挙げないとピンとこないのでIMSLPの原曲の楽譜を見ながら、シェーンベルクがどういうふうに編曲したかを耳コピを駆使して想像してみる。譜例をあげるので、もしシェーンベルク版の「大地の歌」の録音を持っていたら聴いてみて欲しい、マーラーマニアならきっとびっくりするから。

3  わかりやすい例

一番楽器が交錯しているところを見てみる。次の譜面は第3楽章の一番最後のページ。IMSLPに上がっているスコアのノンブルで60ページ目。この110小節目(譜面の色が濃くなっているところ)から。
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ここからピッコロ(楽譜の左にはkl.Fl.つまりkleine Flöteと指定されている)がテノールへの対旋律を吹いる。編曲ではフルート奏者が持ち替えている。オーボエ、クラリネット、ファゴットが8分音符でリズムを刻んでいる。
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クラリネットとファゴットは実はこれは同じ音を吹いている。両方の上声をとれば(オクターブを無視すれば)各楽器一人ずつで演奏可能になる。

ピッコロの2小節の対旋律が終わると、オーボエが動き出して8分音符の別の対旋律になる。
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ここからは原曲ではファゴットが休むけど、編曲ではクラリネットの下声をファゴットに担当させたまま継続させる。

そして原曲では114小節目からはフルートが2本のユニゾンで加わっているが、編曲ではピッコロに持ち替えてしまっていてフルートがいない。ちょうどクラリネットの8分の刻みが終わるので、そのフルートのフレーズをクラリネットで置き換える。フルートのフォルテの音とクラリネットの高音域のピアニシモの音は似通っているので案外気がつかない。
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残りのオーボエ2本の8分の刻みはオーボエとファゴットに担当させて、最後までそのまま終わっている。

こういうふうに、原曲ではつぎつぎに楽器が入れ替わりながら音色が変わっていくのを、編曲ではどの楽器をメロディとして浮き上がらせるか、ということによってその音色変化を再現している。すごくおもしろい。

もう少し他の部分も見てみる。

次の譜面は第4楽章の終わる直前の128小節目からの部分である。スコアの80ページ。フルート、オーボエ、クラリネットが2本ずつ使われている。
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この部分の最初の4小節は、フルートとオーボエの上声(ファースト)と下声(セカンド)はそれぞれユニゾンになっている。そこで、上声をフルートに、下声をオーボエに割り当てている。さらに、続くクラリネットの2本のうち下声を、その小節ではたまたま休みに入ったファゴットに割り当てている。
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さらにそれに続く4小節は、クラリネットのソロはもちろんそのまま、そのあとファゴット2本のフレーズをクラリネットとファゴットに分けている。上声がクラリネットになっているが、これは本来上声がわをファゴットにしたかったけど残念ながらクラリネットでは下声の最後の2音は低すぎて出ない。そこでやむなく反転させている。最後の音はB管クラリネットの最低音である。
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それに1小節遅れで入るオーボエのエコーは下声をフルートに割り当てている。これもフルートの最低音である。さらにまた1小節遅れのクラリネット2本はまたクラリネットとファゴットになっている。最後の音は3音目があるが、この処理は聴いているだけではよくわからない。この1音だけハルモニウムが弾いているかもしれない。

また別の例。

フィナーレの320小節目からの部分。スコアの120ページ。長いオーケストラだけの間奏がクライマックスに向かっていくところの始まり。
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フルートとオーボエの倚音つきのフレーズは3本ずつのユニゾンになっているが、これは当然1本ずつに。そしてクラリネット2本、ホルン2本は上声はそのまま、下声は両方ともファゴットに置き換えられている。
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これが不思議なことに本当に注意して聴いていないとそれぞれ同じ楽器が2本あるように聴こえてしまう。実に面白いものである。シェーンベルクはこういう楽器の音色とそれに対する人間の感覚をよく理解していた、ということがわかる。

4  小編成のメリット

「大地の歌」を小編成でやることには別のメリットがある。これはいろいろなところで指摘されていることではあるが、僕も繰り返しておく。

原曲は大編成ではあるが、マーラー独特の遠近感のある見通しのいいオーケストレーションになっている(壁が立ちはだかるようなリヒアルト=シュトラウスの音色とは大違いである)。しかし異常な部分もある。特に第1楽章は管弦楽法という側面から見ると非常に特異である。例えばマーラーの曲にはかなりの数の小節に出現するティンパニが一度も鳴らない。そしていつもはオクターブで同じ音を弾くことが多いコントラバスはチェロと離れてここぞ、という場面に「ボン!」とピチカートをひとつだけならして、後の小節はまたずっと休み、ということが多い。

つまり低音を支える楽器がたまにしか鳴らないのである。そしてどの楽器もそれぞれの最高音域ばかりを鳴らされる。オーケストラがまるで悲鳴を上げているかのような音色になってしまう。それをバックにテノールは音量に負けないように声を張り上げるとこになる。声質が丸かったり声量の少ないテノールではオーケストラに埋もれてしまう。

「大地の歌」のオーケストレーションは、マーラーにとっては「4番」の次ぐらいに小さな編成ではあるが、やはり3管編成のオーケストラがフォルテシモで鳴らしている前で独唱が音量で勝負するのは難しい。マーラーも多くの部分ではそれに対する音響空間的な配慮(例えば独唱に音域と音色が似た音はオーケストラは出さない)をしているが、ここぞというところ(例えば1楽章の再現部というか3コーラス目につながるクライマックスの部分や、4楽章の中間部から主部に戻る部分など)ではあえてその配慮をしていない。そういう部分では独唱者は自分の最大音量を発揮してオーケストラにかき消されないようにしなければならない。

すでにちょっと古くなってしまったけど、バーンスタインがイスラエルを振ったリハーサルの様子がビデオに残されている(本番も映像つきで残っている)。第4楽章の中間部でアルトのクリスタ・ルートヴィヒがそんなに速いテンポでは歌えなくて聴衆に聴こえなくなってしまう、とバーンスタインに訴えると、彼は
「大丈夫、どうせここでは君の歌なんか誰も聴いてないから」
ひどい話だが、バーンスタインはこれはそういう曲だ、と言っているのである。

いきおい、普段ヴェルディやワーグナー、プッチーニやリヒアルト=シュトラウスのオペラでホール全体を共鳴させるような音量と音色を持った歌手が起用されるということになりがちである。しかし残念ながら彼らは(誰々とは言わないが)自らの体を共鳴箱として酷使するあまり頭蓋骨と脳味噌の間には空間ができて緩んでしまい、また歌って踊って恋をするだけの登場人物ばかりを演じてきたせいもあって、行間を聴かせるような歌が必要なマーラーには役不足になりがちで、ただ「オーケストラに勝った」というようなスポーツ感覚しか印象に残らないことが多い。

シェーンベルクの編曲は原曲の印象をなるべく維持しながら音量を抑える効果があり、そういうオペラ歌手ではなく、リート(ドイツ歌曲)歌手や古楽系歌手を起用できる可能性がここにはある。彼らはピアノや比較的小さな編成の伴奏で、コンプレックスないまぜの微妙な感情を歌うシューベルトや淡い陰影を持った情景を歌うシューマン、あるいは正確なリズム感や軽い装飾音符処理が必要なバッハやモーツァルトなどを歌うことに慣れている。彼らに「大地の歌」を歌わせることは演奏に奥行きを与えることに大きく寄与できる可能性が開ける。

「大地の歌」には「子供の不思議な角笛」と同じようにマーラー自身のピアノ伴奏版も存在する。ピアノ伴奏なら大声を張り上げる必要はなくなる。しかし「角笛」に比べて音が多く、しかも技巧的に困難なせいでどうしても重くなってしまう。さらにオーケストラ版では木管楽器や打楽器などの微妙な音色が大きな魅力になっているが、ピアノでそれを表現するのはますます困難である。全体的に鉛色の印象になってしまう。

もちろん原曲の3管編成を後ろに従えたまま、哀れなほどの死への恐怖や、残していくものへの嫉妬と憧れを歌いこなせるような歌手がもっとも望ましいが、なかなかそういう演奏者が少ないのも事実である。

リートじゃ儲からないもんなあ。
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コメント 4

ウンベルト・つるリッヒ

うーん。深いもんなんですね。
時間と空間を何百年、何万Kmこえてきた音楽というものはそういうものなのでしょうか。
私がきいている音楽はせいぜい40年越えですからねえ。距離は同じか、もっと遠い気もしますが。(音楽に関しては英米よりブータンやモンゴルやフィリピンのほうが遠い)

クラシックファンはみんなここまで聴いていらっしゃるんでしょうか。
それともdecafishさんはクラヲタレベル?

by ウンベルト・つるリッヒ (2011-02-12 21:51) 

decafish

コメントありがとうございます。
「大地の歌」は1908年ごろの作曲なのでやっと百年ですね。リーンの補完が終わったのが83年らしいので編曲に関してはもうすぐ30年です。
クラシックの場合、千倍万倍の屍のうえに残った曲ですので、じっくりと研究する価値があると思います。「ヲタ」ではなく、「研究」と呼んで下さい。

by decafish (2011-02-13 07:50) 

つるみん

なるほど。これは失礼いたしました。
ところで昔は、
おたく=マニア=あるテーマに精通している人、という意味合いもあったんですが、今では、いつも○○している人、、○○しか知らない人、さらには単に、キモいやつになってきてますよね。
さらにはデブ、童貞、2次元としかコミュがとれない、みたいなところまで意味がかわってきてるように思います。

ひょっとしてすでに死語の世界でしょうか。
by つるみん (2011-02-13 23:52) 

decafish

おっと、個人攻撃はそこまでだ(腹は出てるがデブでも童貞でもないけど)。
本物のクラヲタはこんなものではありません。例えばこの「大地の歌」ならば、まず国内外を問わず手に入る録音をすべて手に入れます。CD販売されているだけでもたぶん20以上あるはずです。そしてすべての演奏時間をソートして遅いのから速いのまで聴き較べます。その際録音状態と楽器のコンディションもチェックします。ホルンが違う音を吹いたりクラリネットが裏返ったりしたところは徹底的に状況把握します。特にこの曲の場合、独唱の状態は重要です。音程が外れることも多くチェックしがいがあります。イタリア人歌手の場合歌詞の発音も気をつけます。
そう言うデータベースを蓄積して、ここぞというときに発揮します「彼の1987年の録音ね。テンポは79年よりいいけどトランペットに負けまいと思ってテノールがうわずってるよね、第1楽章の198小節あたり。desをdasと歌ってるし。このときは弦楽が5人も多いのでそのせいもあるかな」などと開陳します。
そして比較対象にならないので、生の演奏を聴きに行くことはありません。
脚色無し、どころか本物はもっとすごいです。
by decafish (2011-02-14 20:40) 

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