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左手のための器楽曲 [音楽の周辺]

吉松隆センセの「アンドロイドは左手でピアノを弾くか?」という記事を読んでちょっと思った。

「左手のためのピアノ曲」というジャンルが存在する。有名なのはラヴェルのコンチェルト。戦争で右手を失ったピアニストのヴィトゲンシュタインというひとが委嘱した。かれは他の作曲家にも左手のためのピアノ曲を委嘱している。日本でも舘野泉が委嘱して左手のためのピアノ曲が作られている。

片手のピアノなら制限は多いにしても、音楽的に成り立たない、ということはない。むしろその制約が音楽的にプラスに作用して曲に深みを与えるということがある。それはラヴェルの例を聴けば明らかで、作曲家が「左手のためのピアノ曲」に挑戦するモチベーションにもなっているんだろう。

スポーツならちょっとでも使いやすい装備を使うのが当然だけど、音楽ではわざと鳴りにくく扱いづらい楽器を使うことがある。ベートーヴェンやシューベルトを弾くのに現代ピアノではなく楽器として成立した当時のピアノフォルテを使う、というのはその典型だろう。へたくそでも鍵盤をさわるだけででかい音が出る現代ピアノでは表現できない繊細さを求めてのことではあるが、その制約を甘んじて受けることでそれまでとは違う表現の地平が見えるのではないか、という期待が演奏家にもあると思われる。作曲家のほうも例えばマーラーのようにB管ではなく5度高いF管のトランペットをわざわざ指定するのも同じ理由である。

ではピアノ以外の「左手のための器楽曲」はありえるか。

「左手のためのギター曲」というのはかなりつらい。全編ハンマリング・オン(左指先で弦を叩いて音を出す)ということになる。もっと困るのは「右手のためのギター曲」で、そのままでは解放弦の音しか出てこない曲になってしまう。プーランクに「サラバンド」というギター独奏のための曲があるけど、

0414poulenc.jpg


この曲の最後の小節は6本の弦の開放の音を鳴らして終わる。このように

0414sarabande.jpg


しかし全編これだけでなにか起承転結のある音楽を作るというのはかなり難しい。

ギターのテクニック上は右手の人差し指で弦を軽く押さえて、薬指で弾くといういわゆる「技巧的ハーモニクス」というのもある。これを使えば(平均率ではなく純正調になってしまうけど)12半音のうちB♭とCとF以外の音が出せる。でも音によっては極端に高い音しか出せない。

いや、ギターはまだ片手でも音が出せるだけマシで、ヴァイオリンヴィオラチェロコントラバスは片手で解放弦以外の音を鳴らすことはできない。さらに木管楽器も片手では「ドレミファソ」は出せるけど「ラシ」はどうしても無理、とかいうことが起こる。

一方で全然問題ないのが金管楽器。どうやって楽器を保持するか、という問題(落語の「軒づけ」では太棹(大型のコントラ三味線とでも言うべきもの)を他人に支えてもらって弾くシーンがある)はあるにしても、バルブは片手があれば演奏は可能である。多くの金管楽器はバルブが右手側を向いているので左手で操作するのには工夫がいる。ホルンは鏡映対称な楽器を作らないと右手でバルブを操作するのは難しいかもしれないけど、トランペットなんてちょっと指を伸ばすだけで左手でもバルブ操作はできる。

ちなみに金管楽器の中でホルンだけがバルブを左手で操作する。バルブがなかった時代に右手を朝顔に突っ込んで音程や音色を変えていたという歴史的な理由からで、バルブのある現代楽器でも右手は朝顔に入れて楽器の保持と音色変化に利用する。右手が湿るのでホルン奏者とクラシックギタリストは両立しないと思われる。

古楽系演奏家のおかげで聴けるようになったバルブのないいわゆるナチュラルなトランペットやホルンの演奏に関しては両手がなくても演奏可能である。残念ながら多くの音楽家が参加した両世界大戦の時代には、バルブのない金管楽器は完全に忘れられて演奏者はほとんど存在しなかった。この時代に認知されていれば演奏家としての活動を続けることができたトランペット吹きがいたかもしれない。

ところでもちろん声楽は、手がなかろうが足がなかろうが喉と胴体さえ満足なら問題ない。従って「左手のための声楽」というのは意味がない。トーマス・クヴァストホフというバリトンがいるけど、録音を聴くだけでは彼が短肢症だとわかる人はいないはずだ。

一方で声楽には身体上の大きな問題がひとつあって、19世紀のイタリアやドイツのオペラをレパートリーにすると脳に深刻なダメージを受けるという点では、ボクサーほどではないにしても演奏家個人にとっては戦争や交通事故による身体損傷よりも重篤であるように僕には思える。しかしまあ、これは別の問題。

もともと楽器は、おそらく1万年ほど前に「叩く」「吹く」「弾く」動作によって音を鳴らしたことから始まっている。従って楽器の「保持」と「発音」を片手ずつにそれぞれ分担させた形から発展してきた。弦楽器で音程を決定するのに、多くの人の利き手である右手ではなく左手を使うのは、最初に(利き手ではない)左手で楽器を保持して(利き手である)右手で発音したからだと僕は考えている。

ところが鍵盤楽器はその成立がずっと新しく、楽器の保持を放棄することで両手を平等に発音に参加させるというそれまでにないスタイルをとった。そのため鍵盤楽器はいちばんフォールト・トレラントな楽器で「片手のための」もっとも適した楽器となった。つまり「機能不全」に陥らない程度の「制約」が演奏する上でも作曲する上でも望ましいバランスになっている、ということだろう。従って「左手のための」はやはりピアノが一番ぴったりという一番つまらない結論に到達する。

ではなぜ「右手のためのピアノ曲」は存在しないのか。「音域、演奏効果などの問題から左手用のものが圧倒的に多い」とWikipediaにあるが、これは正確ではない。また「力の強い親指がメロディを弾けて片手であることをカバーできる」からというような説明を聞いたことがあるが、メロディと同程度に重要なはずのバスラインがこんどは小指になってしまって、そのことのほうがむしろ問題は大きいはずである。

ではなぜか、を書こうと思ったけどすでにわかりやすく説明されているところがあった。低音の問題は弾いてみることで理解できる。この話で〆めようと思っていたんだけどできなくなってしまった。

上方落語に「一文笛」という話がある。スリの名人が貧乏な子供を哀れに思っておもちゃの笛を与えたが、その笛はいつもの癖でスッたものだった。それが露見してその子供に罪がかかり、子供は井戸に身を投げたことを兄貴分から聞かされたそのスリは、自分の右手人差し指と中指を匕首で切り落として詫びる。そしてそのスリは子供を助けようと医者の要求する前金を得るために再び仕事をしてしまう。江戸落語のような人情話になるのかと思って聞いていると、兄貴分に「よう二指飛ばして仕事ができるな、おまえは本当に名人や」といわれて

「兄貴、実はわしゃ、ぎっちょ(左利き)やねん」

おあとがよろしいようで...
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