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ちょっとしたいちゃもん(音楽と「ことば」) [音楽について]

今日たまたま、森下唯氏という現役の若手ピアニストがブログに「佐村河内事件」のことを書いているのを読んだ。いまごろとりあげるのはちょっと旬を逸ししかけているかもしれないけど、その内容に文句を言いたいわけではない。

彼は冒頭で「...また純粋に音楽を聴くのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。...」と書いている。残念ながらその主張に関する具体的な説明はその文章には現れない。その後の文章は事件に関する感想と見解を述べていて、その内容はクラシックの職業音楽家らしいと僕は感じるし、ほぼ同意する。

しかし今さきに引用した「純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然」「そんなことを目指す必要さえない」とは僕には思えなくてまったく同意できないし、そこを目指さなければ音楽の存在価値はない、と僕は思っている。そのことをちょっと書いておく...

これまでなんども書いてきたように音楽は言語である、と僕は思っている。脳の中では「ことば」のボキャブラリと同列に存在している、と考えている。「ことば」の起源は古くてその進化の過程を人間は覚えていないが、音楽の進化はたかだか千年程度で、特に西洋音楽は楽譜として残っているのでよく理解されている。そしてそれは「ことば」の進化と同じようなやりかたで発達してきたものだと思える。

「ことば」はものやことがらに名前を付けるところから出発して、思考の道具となり、単語の意味をほかの人間と共有し、それらを組み合わせることで表現力を高めるという過程を経てきたと僕は考えている。音楽も似たような過程を経てきていて、それは「ことば」では表現できない、あるいは表現困難なことを表現しようと言う意欲の現れである。

だから「ことば」と同じように単語の集合としてのボキャブラリを音楽も持っている。森下氏はそれを「イディオム」と呼んでいるが、そのことばはなんとなく何度も繰り返し現れるパターンというような意味に思えるので、僕はあえてもっと普遍的なものという意味で「ボキャブラリ」と呼んでいる。しかしようするに同じものである。

「ことば」と音楽は広い意味での言語だといってもとうぜんそこには違いがある。一番大きな違いは「ことば」がシンボルで、もともとは頭の中にしか存在していなかったのにたいして、音楽は身体性を伴っている。リズムは人間の体の各部の共振周波数が反映しているし、音階や和音は物理的な振動と、耳のフーリエ解析器としての特性を反映していて、それらの上に音楽のボキャブラリは構築されている。

例えば、和音の「長」「短」にともなう「軽」「重」や「明」「暗」というイメージは、複数の振動が重なったものを耳がとらえるときの特性から現れたものだろうと思えるが、「短調」が「悲しい」というのは過去のヨーロッパの作曲家たちが、個人的な感情を音楽に込めるために築いてきたボキャブラリである、と僕は考えている。

その証拠に、日本では「短調」が「悲しみ」を表すということはボキャブラリとして持っていなかった。比較的最近作曲された「さくらさくら」は西洋音楽的にはあきらかな短調であるが、そこに「悲しさ」はみじんもなく、「優美さ」や「端正さ」が込められていることを日本人なら聞き取るはずである。もっと新しいいずみたくの明治チョコレートのCMソングもあきらかに短調であるが、これにも「悲しさ」はなくて「こじんまりとしたかわいさ」が表現されている。

つまり「短調」が「悲しみ」を表すようになったのはもともと物理的身体的音響的にそうだったわけではなく、数百年前の西洋の音楽家がそう言う表現言語を発達させた結果である、と僕は考えている。これはほんのひとつの例で、またもちろん西洋でも「短調」がすなわち「悲しい」という図式が成り立つ曲は、全体から見ればわずかである。

しかし言いたいのはこういう音楽言語の集積から音楽ができていて、それは「ことば」によって文章を紡ぎだすのとまったく同じで、音楽を聴くということは文章を読むのと同じように、そこに使われている音楽言語を聴き取り、それに共感するということだ、ということである。

前に何度も書いたけど、数式も同じようなレベルで「言語」の一種である、と僕は考えている。それは「ことば」に比べると極端に応用範囲は狭いけど、表現力は絶大である。数式も過去の数学者たちが築いてきたボキャブラリの上に成り立っている。ボキャブラリを共有しない(数学になじみのない)ひとにはただの意味不明の記号列にしか見えないけど、数学に親しんでいるひとには特定の数式の持っている美しさや、奥行き広がりを感じることができる。

また、同じ音楽であるジャズも独自のボキャブラリを発達させていて、たとえクラシックの専門家でそのボキャブラリに精通したひとでもジャズを知らなければ、例えば一部のモードジャズなどはただの無機的な音階列を延々と垂れ流しているだけにか聴こえないだろう。ポピュラー音楽から出発したロックでさえ、そのボキャブラリを知らないにひとには不快な騒音でしかないことは、言うまでもないくらいの常識である(わかっていてもうるさいときはあるけど)。

つまり、音楽には音楽独自のボキャブラリがあり、そこから独自の表現世界を構築することができる。そういう音楽に対して「ことば」による情報はその音楽の理解に対して有益であることも、逆に阻害することもありえる。数式を「ことば」で表そうとすると、数式が得意とする量的な表現内容はほとんど欠落してしまうし、場合によっては誤解を招くのとまったく同じことである。モードジャズが表現しようとする自由さや緊張感を「ことば」で表現しようとすると非常にまだるっこしいことになるし、的確に「ことば」に置き換えることは最終的にはできないだろう、と思う。

クラシック音楽ではアカデミズムが客観性を重んじるせいで「ことば」がその周辺に澱のようにまとわりついていることが多いけど、ジャズでは、たとえばコルトレーンの「至上の愛」を聴いて、ジャズを聴き慣れた人ならその音楽から「ことば」による表現領域を超えた何かを希求する意思を感じ取ることができるはずである。そのようにジャズの持つ即興性のせいで音が「ことば」よりも手っ取り早いということもあって、ジャズはクラシックに較べて「ことば」による浸食が少ない音楽であることが多い。このことはクラシック畑の人たちに振り返ってもらいたい点でもある。

とはいうものの、数学の論文が数式の羅列だけでなく、「ことば」も含まれていることは、数式が表現できる世界は非常に狭いということと、「ことば」は人間の思考の道具としてもっとも古く、数式の表現世界を補完することができるからである。音楽にも同じように「ことば」による補完が可能な場面はありえる。

しかし、音楽によってしか表現できない世界があり、数学によってしか表現できない世界があるからこそ、音楽や数学の存在意義があり、それで人間はさらに豊かになれるのではないか。音楽が、もしつねに「ことば」によって説明されなければならないとするなら、いっそのこと音楽を使わず「ことば」だけにしたほうが簡潔で誤解も少なく効率的である。

ということで、ひとによってはあまりに理想的な話ととらえられるかもしれないけど、「純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然」とは僕は全く思わないし、作り手だけでなく聴き手もふくめて「純粋に音楽を聴く」ことを目指す努力をしなければ、コンサートピアニストなんて存在意義はないだろう、と僕は思うんだけど。
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ソシュール

非常に分かりやすく、かつ、示唆に富んだ見方だと思います。言語も、数学も、音楽も、文学も、美術も、スポーツの機微も、分かる人には分かるが、分からない人には分からない。これらは全てソシュール的に説明できるのかもしれませんね。それらの間に翻訳は存在するが、翻訳は翻訳であり、話者が認識しているシニフィエとaudienceが認識したシニフィエは同じとは限らない。より純化された表現者においては伝達されるシニフィエの純度が高まるということはないでしょうか?他方で、audienceも受領能力がなければそれも伝わらない。作り手だけでなく聴き手を含めて「純粋に音楽を聴く」ことを目指す努力が必要とは卓見だと思いました。
by ソシュール (2015-07-31 20:59) 

decafish

コメントありがとうございます。
理解していただいた上に、面白いと思っていただけて光栄です。
ただ、僕は言語学の「ボキャブラリ」をほとんど持っていなくて、ソシュールの主張とどう同じなのかどこが違っているのかわかっていません。そのせいで、このあと話が続かなくて「だからどうした」と言われると「どうもすみません」となってしまいます。
もう少し議論に耐える話にしたいと思うのですが、しょせんガチ理系頭のせいでなかなか思うようにいきません....
by decafish (2015-08-02 22:11) 

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