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静力学がわからなかった [昔話]

僕は子供の頃(つまり半世紀前)、理科と図工が得意だった。普段からちまちまと手を動かして何かを作るのが好きだったので、器用に手先を使う訓練を積んでいたことがたまたま図工にはよかったんだろう。また、理科は物理的な分野だけでなく、化学的、生物学的な分野でも得意だったが、それがなぜだったかはよくわからない。一方で、算数は自分ではわかったつもりだったけど、計算をすぐ間違うので成績は悪かった。国語では設問とその答えが頭の中で全く結びつかなかったし、社会なんかはそもそも何を話題にしているのかさえ理解できなかった。

さらに、小学校中学と僕は授業中にほとんど質問をしたことがなかった。わからないというと先生はたいてい
「どこがわからないのか」
と質問した。それにどうしても答えられなかった。わからないことにここもあそこもない、と思ったのでつい
「....全部が....」
と言ったときには先生は怒りだした。子供の頃の僕は自分の疑問点を特定して言語化する能力を完全に欠いていた。

親しい友達もわずかしかいなかったし、その数少ない友達には成績が少しでもマシなのも皆無だったので、小学中学と僕はわからないところは自分で解決するか、できない場合には放置するという癖がついた。いきおい放置することが多くなって、そのあとは授業についていくことができなくなった。することもないので授業中ずっとぼーっとしていた。

中学になって、得意だった理科でわからないことがでてきた。はたから見るといつもの通りただぼーっとしてるように見えただろうけど、僕の内面はほとんどパニックだった....

中学に入って、理科でどうしてもわからなかったのが静力学。

「机の上の本は、地球の重力によって下向きに力が働いている。机は本に同じ大きさの力で押し返している。力が釣り合っているので本は動かない。逆に、動いていないものは力がつりあっている」このあと、壁を手で押す話があって、「壁を押しても動かないのは、壁が同じ大きさの力で押し返しているから」というのである。

もしそうなら、ずっと壁を手で押してて、ぱっと手を離したら手の形に壁が飛び出てくるんじゃないか?そもそも、なぜ机や壁は押されている力の大きさがわかるんだろう?

その授業の次には天井(実際には木枠)からひもでおもりをつるしていた。「おもりは重力で下に引かれている。ひもはおもりが引かれる力と同じ大きさの力で上むきに引っ張っている。さらにひもは天井を下向きに引っ張って、天井は上向きに引っ張っている。それぞれの力がつりあっているので動かない」

天井はひもの先についているおもりの重さをどうやって知るんだろう?そもそもひもの先になにがついているのかなぜわかるんだろう?

次に板の上に木のブロックを置いて、傾けた。傾け方を大きくするとすべっていくけど、ある角度までは動かない。「すべろうとする力と摩擦力が釣り合っている」と説明された。すべろうとする力は角度によって違ってくる。摩擦力というのはすべろうとする力にいつもうまく合わせる力なのか?なんでそんな都合のいい具合になっているのか?

もちろん今では「動かない=力の釣り合い」という考え方がわかるので疑問は解消されている。しかし当時の僕には不思議という以前に混乱でしかなかった。

そのあとにでてきた動力学はわかった。力を加えるとスピードや動いている方向が変わる。力というのはたぶん指で何かを押したとき指に感じる圧力のことであろう。それを動いているものに及ぼすとそれにしたがって影響が現れる。動いているものは力が及ぼされたあとそれを知って、それに従った動きをする。わかりやすかった。

ところがまたわからないことが現れた。ふたつのものが衝突したときその瞬間に大きさが同じで向きが反対の力がそれぞれに加わるという。いわゆる「作用反作用の法則」である。また静力学と同じような疑問がもたげてきた。ぶつかったその一瞬にお互いに力を調整しているかのようなイメージを抱いてしまって、なんで衝突の瞬間だけそんな調停が起こるのかわからなくなった。指で押したときと何が違うんだ?得意のはずの理科がテストでは国語や社会と同じ超低空飛行になってしまった。

今でも僕みたいな何がわからないのかわかっていない、何がわからないのか表現できないというような小中学生はいるのではないか。そういう子供に先生方はどういう接し方をしているんだろう。そういう子供には学習障害として別のプログラムが与えられるんだろうか。

例えば静力学の問題に対して、硬く動かないように見える机も本を置くとその重さで変形して応力を発生し、力が釣り合った時点で変形が止まる、という説明を受けていたらどうだったろう。やっぱり僕はさらに混乱するだけだったかもしれない。先生としてもどこで誤解しているかがわからないと適切な指導はできないだろう。しかし僕はそれを他人に説明することがいつまでもできなかった。

高校に入って僕もちょっと人間らしくなった。しかしやはり先生に質問したり、友達に教わったりすることはなかった。高三になって、僕は自分で勝手に、力というのはエネルギーや運動量と同じで見ることができない、即ちそれは存在しないものであって、計算の方便である、と考えるようになった。

つまり作用反作用の法則が存在すると仮定すれば、そのあとの目に見える運動の様子が説明できる、というわけである。人間は力やエネルギーを直接感じることはできない。ものを指で押して感じる圧力やオモリを持ったときに感じる重さは力ではなくて、いわば色や音が物理量でないのと同じような、物理とは無関係な人間の感覚である。もちろん、当時の僕がそう説明できたわけではなくて、今の僕が当時の理解の仕方を思い出すとこんなふうかな、ということでしかない。その頃はもっと漠然と直感的に考えていた。

今考えると当時、受験勉強をするようになったおかげで、数学の代数や微積分が案外、他の同級生に比べても得意だと言っていいことを発見して、その理解の仕方を物理にも使うようになったという感じである。

受験用の勉強法としては良かったかもしれないけど、それは物理学に対しては正しい理解ではなかった。大学の間もそのまま過ごしてしまって、その理解の仕方を修正できたのは会社に入って改めて光学の勉強をするようになってから、それに伴って現実とモデルの区別やその接点を考えるようになってからになった。

僕は自分が人に教えるのには向いていないという自覚がある。しかし勉強のできない子供のケーススタディとして役に立つのではないか、と思っているんだけど、どうだろうか。
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