SSブログ

日曜美術館「アンドリュー・ワイエス」 [日常のあれやこれや]

今夜の日曜美術館の再放送「ワイエスの描きたかったアメリカ」を見た。僕はアメリカの画家は音楽におけるシューマンみたいに使われている言語がよくわからないせいで、なかなか理解できない(それは単に僕がそのボキャブラリを持ってないからに過ぎないんだけど)。ワイエスも本物は見たことはないんだけど画集なんかで見てやっぱりよくわからない、と思っていた。

一番有名な「クリスティーナの世界」も、つれない愛人に追いすがる不倫の人妻の絵だと(若い頃見たせいもあるかも)ずっと思っていた。すがるような女の上体、愛人を捕まえようとして草を掴んでしまっている左手指、丘の上の家にはその愛人がいるのだ、とばかり思っていた。描かれている女性の足が不自由だったということはこの番組で教えてもらった。

僕の見る目がなかったと恥じるんだけど、それはいつものことなのでそういう恥ずかしさには慣れっこになっている。でもワイエスの絵ってやっぱりどこか言葉を過剰に要求しているように思える。僕は絵は絵だけで存在すべき(それは音楽は音楽だけで存在すべきだと考えている延長だけど)だと思っている。もちろんワイエスも言葉を補って欲しいとは考えてなかったのは明らかだけど、彼の絵は絵から言葉が溢れ出てしまっているように思える。キーワードをひとつ与えるとそれをきっかけに自らを説明しようとする饒舌さがあるような気がする。「クリスティーナの世界」も描かれた女性の足の話を一言聞いたとたんに、僕は絵のそれぞれの部分が、不倫の人妻ではなく不自由を受け入れて日々の生活をする気丈な女を表しているように一気に入れ替わってしまった。

それはわかりやすさでもあるし、説得力でもある。でも逆に危険でもある。番組では言及はなかったけど、例えば最近のアメリカの移民排斥、白人至上主義に対する反論として彼の絵が取り上げられてしまう可能性がある。人間の内面を掘り起こそうと思って描いた絵が、下手をすればわかりやすい象徴として利用されて消費されてしまいかねない。それは絵の主題からは間違っていないとしても、絵にとってその作者にとってそれは不幸である。とくにワイエスの絵にとってはなおさらである。

ところで僕はワイエスが晩年に描いたという「スノーポール」にショスタコーヴィチの交響曲15番を連想してしまった。過剰な言葉と、言葉を超えた何かがあるような気がして。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。