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アバド+マーラーユーゲントの9番 [クラシック]

台風をおしてまた工場に来ている。今日は移動に膨大な労力を費やしただけに終わって、仕事にならなかった。無駄に疲れた。

たまたまYouTubeでアバドがマーラーユゲントを振ったマーラーの交響曲9番を聴いた。こういった世界トップレベルに近い演奏を、十分鑑賞に耐える画質音質で、簡単にロハで見聴きすることができるというのはすばらしい。僕が子供の頃を考えたら本当に夢のようである。

とはいうものの演奏そのものは「?」が多いものだった。第1楽章はずっと一本調子で曲の持つ開放感が表現しきれず、退屈な曲になってしまった。本来そんな曲ではなくて、もっともっと深みと広がりと、そしてなによりも、こんな自由さというのが存在するんだ、ということを教えてくれる曲だと僕は思っている。

第2楽章もやり過ごし感の多い演奏だった。第1楽章に比べるとマーラーの筆が鈍ってるとしか思えないところもあるのでしょうがないかもしれない。しかもそこそこ長いのでこれを聴かせるというのはかなり大変ではある。

すばらしいのは第3楽章のブルレスケ。オーケストラの機能と機動性を両立させた名演だと僕は思う。トリオではツッコミが足りなくてダレもあるけど、主部はリズム感のはっきりした、まるで後先考えないというような潔い音楽になっていた。ソリストたちの技術の高さもある。全体としてのアンサンブルは、やはり世界水準には劣るかもしれないけど、オーケストラメンバの自負と度胸と意気込みが感じられて聴いていて気持ちいい。

コーダのプレストに入ってからはそれこそジェットコースターのようで、実に爽快だった。やはり運動能力の高い若い人が音を出しているからいいのかもしれない。僕は歳を食って運動能力が演奏能力に直接に影響するということを今更ながら知りつつある。

フィナーレは陰影のない妙に明るい場面が連続する不思議な演奏。こんなの初めて聴いた。一見スッキリしてるようでどこかドロドロしたところのあるマーラー独特の遠近感がなくなって、なんだかのっぺりした絵になってしまった。こういうのもありかな、とちょっと思ったけど、やっぱりこの音楽の本来の姿ではない、という気がする。僕としてはこのフィナーレのせいで残念感溢れるという評価になった。

最初に書いたように、このレベルの演奏がこのレベルの(少なくとも僕にとっては)高画質高音質で簡単にロハで鑑賞できる、というのはすごいことである。しかし、この一回の演奏のために指揮者とオーケストラメンバが重ねてきた時間と努力に釣り合った聴き方なのか、というと疑問は残る。

演奏者としてはその見返りは必要だし、でなければこのあと続けていくことは困難になる。昔はライブに参加するのでなければ、LPやCDというパッケージ、つまり入れ物を買うことで中身に対する対価を支払ってきた。それは中身に対して直接対価を支払う手段がなかったから仕方なしにそうしたに過ぎない。

しかしそうすると、また例によって売れなければならない、ということになってしまう。クラシック音楽の受け手の層は今では薄いので、AKBと同じシステムに乗ったのではやっていけない。アバドとマーラーユーゲントのCDを一人で五百枚買う奇特な人は存在しない。

パッケージの意味がなくなった今、なにかもっと直接的でみんなが納得できるシステムはできないものか、と思ってしまう。

やっぱりケイロンに行くしかないのか....
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