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Eテレ「クラシック音楽館」シュトラウスとマーラー [クラシック]

今夜、Eテレの「クラシック音楽館」のヤルヴィN響を見た。前半はヨハン・シュトラウスのワルツを何曲かだった。シュトラウスは毎年明けにウィーンフィルが実況をやるのでさんざ聴いている。はっきり言ってどれも内容に乏しい音楽で、僕からするとなんでわざわざコンサートでやるのかわからない。

ヤルヴィN響のアンサンブルは完璧なんだけど、いつも正月にテレビの前で酒を飲みながら寝転がって聴いているウィーンフィルに比べるとすごく硬い。シュトラウスの音楽は徹底的に能天気で、耳たぶより後ろのことはさっぱり忘れた、というようなのに、なんだか難しいことをやっているぞ、みたいに聴こえる。せめて楽しそうならいいのにと思うんだけどそういうところもあまりない。音楽の空虚さが強調されているように聴こえてしまった。

一緒に聴いてた女房によると「ベートーヴェンがスカートはいてるみたい」という。音楽の演奏のことになるといつも辛辣な僕の女房だけど、言い得て妙だと思えてこれには僕も笑ってしまった。

後半はマーラーの4番。僕はこの曲をヤルヴィが言うような純粋な曲だとは思っていない。マーラーが二十歳代半ばで書いた第1番は自身の子供時代と決別する曲なのに、その十年以上も後に子供の純粋さを持つ曲を書くわけがない。僕はこの曲を、四十歳を間近にしたマーラーがあるとき見た長い夢を音楽にしたものなんではないか、と思っている。

誰でも自分の若い頃の、妙に鮮明な夢を見るものである。見ているときには懐かしさは感じないし、現在の歳をとった自分が何も知らない若い自分に乗り移っていることに不自然さは感じない。しかし既視感がうっすらとあって、ふとしたところに今の自分が投影できない齟齬というか違和感があったりする。そういう没入的な感覚と鳥瞰的な視点とが同時にこの曲にはあると思っている。

ヤルヴィN響はここでもなんだか硬いんだけど、シュトラウスに比べればそれほど気にならない。シュトラウスにはない音楽的な内容に救われていると言う感じもする。

驚いたのは4楽章で歌うソプラノが3楽章最後のトゥッティのフォルテシモのときに袖から歩いてきて、ヤルヴィのそばに立ったこと。これは盲点だった。最初から立ってるわけにもいかず、かといって3楽章が終わってから現れると拍手が起こったりしてシラけてしまう。アイデア賞ものの大正解。これって最近は他でもこうなのかな。

この曲のソプラノは難しい。マーラーの曲に出てくる声楽ソロは下手ではダメだけど、上手すぎて全てを歌い尽くすようなのはもっとダメで、余白というかスキがないと面白くない。特にこれと「大地の歌」、それに「角笛」と「亡き子」はそうで、さらにこの4番ではイタリアオペラみたいな豊満でエロいソプラノだとそれだけで曲全体がぶち壊しになってしまう。その意味でこのソプラノはよかった。ちょうどいい下手さがあった。それに楽譜を手に持たず、音のない間もずっと顔をあげたままなのもいいし、終わってからの若々しい笑顔もよかった。

歳を食うと、肩を露わにしたぼんきゅっぼんよりもこのほうがかえってエロを感じるものである。なんのこっちゃ。
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