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オーディオ「超」マニア [昔話]

昨日、うちの娘と話してて思い出した大昔のこと。僕が大学を卒業して都内に本社がある会社に入ったばっかりのころの、もう35年前の話である。

うちは神戸の周辺だったし大学は京都で下宿していたので入社して独身寮に入った。寮といっても団地サイズ6畳二間の2Kが並んだプレハブ二階建てアパートを借り上げたもので、1戸に一部屋ずつふたりで使って、バストイレ台所はふたりで共用だった。

僕と相部屋だったやつは都内の大学の学部卒で音響製品の工務に配属されて、一方僕は部品の開発への配属だった。僕は配属先で約8ヶ月間の新入社員研修があって残業はまったくなく研修仲間で毎晩遊び歩いていたけど、相部屋の彼はすぐ仕事について残業をこなしていた。職場の場所も違っていたし歳の差もあって(僕は修卒だった)、休日以外では話すこともなく、顔を合わすこともあまりなかった。彼と言葉を交わしたのべ時間はせいぜい10時間にも満たないけど、僕にあることを思い知らせてくれた.....

寮での僕の部屋は、テレビはないけどギターがクラシックエレキフォークとベースの4台あって、小さなギターアンプと片側倍速カセットMTRとエフェクタがゴロゴロして、実家にあったレコードを録音し直したカセットテープが山積みになってて、同期のやつらから「ここは楽器倉庫かよ」と言われていた。一方相部屋の彼は小さなテレビとライティングデスクがあるだけの質素なものだった。

その彼が1年目の年明けすぐにTannoy社のスピーカを買った。整理箪笥を二つ並べたような、6畳間の長手方向が押入れの扉を残してほぼ埋まる巨大なものだった。それと一緒に国内の超高級オーディオブランドのレコードプレーヤと真空管パワーアンプとを6畳間の短手方向の壁沿の扉の横に並べた。部屋の様子が一変した。

寮のみんなは、そんな高価なものを買う金を蓄えられた、ということにまず驚いた。親元から遠い連中ばかりなのに、もらった給料をその次の1ヶ月で使い果たしてしまうやつがその寮では多数を占めていて、給料日が近づいてくると夕方にあかりの灯っている部屋が妙に増えるという現象が毎月観察できたぐらいだった。

部屋の南側のサッシを開けると庭になっていて、冬晴れの休日には他の部屋から彼のスピーカを覗きに来た。その連中に彼は誇らしげに見せびらかしていた。寮にはオーディオマニアを自認する者もかなりの人数いたんだけど、彼のスピーカはそのマニアたちにも驚きだったらしい。狭い6畳間には明らかに似つかわしくない、とマニアたちに言われると彼は、いつまでもこんな寮にいるつもりはない、いずれふさわしいところに引っ越すのだ、と言っていた。

そのマニアたちの話によると、それまでの給料をすべてつぎ込んでも足りるかどうかわからない、というようなものらしい。僕はスピーカやアンプといえば国内の電機メーカの製品か、あるいはMarshallやFenderや、また当時急速に使う人が増えていたRolandとかなら知ってたけど、Tannoyなんて知らなかった。そんなメーカがあるんだ、と彼に言うと完全にバカにされた。それに僕は1年近く薄い壁1枚隔てただけで暮らしていたのに、彼が音楽を聴くと言うことを知らなかったので、そのことにもちょっと驚いた。

そんなまぼろしのような超高級の再生装置で音楽を聴けると思って、僕が聴いていたバーンスタインと、ちょうどそのころリリースされたばりだったカラヤンのマーラーの録音とか、僕が当時びっくりするぐらいいい音だと思ったXTCのGo2とそのおまけ45回転盤Go+を(どれもLP本体は実家にあってカセットテープに落としたもの)持って彼の部屋へ行った。ところが彼はカセットテープの音なんて聞くに耐えない、だいいちTannoyのスピーカでロックを鳴らすなんて、と鼻で笑った。見ると確かにカセットデッキは積まれてなかった。

代わりに彼が鳴らしたのがチャイコフスキーのピアノコンチェルトのLPである。グラモフォンの黄色いレーベルが見えたのでおそらくリヒテルの録音だったろう。確かにアンプのボリュームを絞ってもかなり大きな音で聴こえる。へえ、やっぱり違うねえ、と聴いていたら彼は第1楽章の例の派手な序奏が終わって第1主題が始まったあたりで針をあげた。十分わかっただろう、ということらしい。僕はそこで引き上げた。

そのあと何度か彼の部屋に行った。面白いと言うか不思議というか、彼はその時点でレコードを少ししか持っていないということを知った。僕が知ってるのは例のチャイコフスキーと、カラヤンが振った新世界の録音と、もうひとつ序曲集のようなの(「フィンランディア」が入っていたような気がするがよく覚えていない)の3枚ぐらい。とくに彼のお気に入りはチャイコフスキーで、そのあとも壁越しに何度もなんども(しかも序奏ばかり)聞くことになった。

彼と話していてだんだんわかってきたのは、ようするに彼は音楽が好きなのではなく、Tannoyのスピーカから出る音響が好きなのだ、ということ。どうやら、当時僕が好きで聴いていたロックやジャズはもちろん、クラシックにどんな曲があるのかも彼はあまり知らないようだった。チャイコフスキーはレコードがあるので知っている、ベートーヴェンは名前ぐらいは知っている、新世界の作曲家はドヴォルザークというのか、モーツァルトそんなのいたな、ラフマニノフというのも聞いたことある、バッハなにそれ、マーラーバルトークやめてくれ頭が痛い、というような感じで、それぞれの年代も「たぶん百年ぐらい前」のひとからげだった。

一方、彼はスピーカの構造やアンプの回路構成には非常に詳しいようだった。大学で電気工学科に入ったのはその興味つながりだったとのことで、彼の音響システムに対するいろいろな蘊蓄を聞かされた。バックロードホーンという言葉は彼から初めて聞いた。このときスピーカは発音機構が違うだけで、楽器と同じだ(人間が弦を弾いたり管を吹いたりする代わりにスピーカはモータと同じ原理で膜を振動する)ということを知った。それ自身は僕にとって目からウロコだった。

しかし楽器とスピーカは違うところもある。楽器は音色に個性がなければならない。例えばクラリネットとオーボエは見た目はよく似た楽器だけど、音色はその音を初めて聞く人にも明らかにわかるほど違っているし、音域もオクターブ近く違う。よく似た発音機構の木管楽器であってもそうである(クラリネットとオーボエでは厳密にいえば発音機構が少し違っているので、当然かもしれないけど、例えば同じ発音機構で音域もほぼ同じのクラリネットとアルトサックスで、人が吹かずに歌口に小さなスピーカを押し付けて音を聞いてみるだけでも違いが誰にも簡単にわかる)。

ところがスピーカは違う。可能な限り広い帯域や線型性は前提条件として当然で、さらにその上で個性が問われるというものらしい。そのためにメーカは開発費をつぎ込み、マニアは高価な製品を競って買い漁る、という代物だと言うことをその時知った。

そういったこを彼から聞いたとき「そんなものか」と思ったけど、今では矛盾する要求としか僕には思えない。線型性とは数学的には無個性と同義である。しかしスピーカのマニアもメーカもその矛盾を目指していて、スピーカに限らずマニア向けのオーディオ製品はすべてそういうものらしい。僕には全く理解できないが、需要と供給の関係でガベジコレクションでは解決できない循環参照のように昔から今も彼らは存在し続けているようである。さらにはケーブルに何十万円もかけたり、わざわざ電柱を立てたり、というのは僕にはとても正気の沙汰とは思えない(娘の話によると電力の供給によっても違うそうである。「太陽光は芯がないよな」「やっぱり火力でないと」「ドイツの電力は音にハリが出るね。230Vだし」とか言うのだろうか)。



その後、僕は正式に配属されてCD発売前夜の開発追い込みのさなかに放り込まれたので、休日でさえ彼とはほとんど顔を合わさなくなって、それから3年後に結婚準備のため僕の方が先に寮を出ることになった。彼はとうとう一度も僕の部屋に入ることはなかった。彼の興味を引くものが僕の部屋には皆目なかったということだろう。

僕が寮を出てさらに数年後、その寮に入った新卒が僕の同期のやつの部署に配属されてきた。そいつの話によると「巨大スピーカの持ち主」の名で知られた有名人としてまだ寮にいるどころか、その借り上げ寮でひとり残った最古の住人となって、牢名主ならぬ寮名主として後輩の世話を焼いているということだった。

会社の規定で寮には29歳までしか居られなかった。その後輩の話によると追い出されるちょっと前に自分でどこかにアパートを借りて寮を出て行った、とのことであった。

Tannoyをはじめ、高級オーディオの話を聞くと僕は彼を思い出す。僕は当時オーディオ機器に金を使うぐらいならそれでコンサートに行ったほうがずっといい、と思っていたし今でもそう思っている。それは彼のようなオーディオマニアにとって全く次元の違うものを交換するようなトンチンカンなものだ、ということを彼から言外に教わった。彼は都内各所のコンサートホールへのアクセスには最高の立地に4年間住んでいながらコンサートには一度も行ったことがないらしかった。僕にはとても信じられないけど、彼にとっては疑う必要もないほど当然のことだった。

もちろん僕自身はオーディオ機器に金を使うぐらいなら、コンサートに行ったり楽器を整備したりというほうを間違いなく選ぶ。価値観の違いである。音楽が趣味というとオーディオマニアも包含されるように思われることが多いが、中には両立している人も入るかもしれないけど実態としては、少なくとも僕にとってはまったく別物である。

僕も音楽に最初にのめり込んだきっかけは録音だった。しかし中学高校と、音量増強員としてブラスバンドに出入りしたり、素人や学生のオーケストラのチケットのさばき先として小遣いのはした金を巻き上げられたり(当時の神戸周辺都市には結構たくさんあった)、大学に入ってからは僕自身もステージに立つ経験を何度もした。そのせいなのか、録音には抜け落ちてしまう「何か」が音楽にはある、という確信を持つようになった。それを僕はちょっと偉そうに「音楽の魔法」と呼んでいる。

コンサートみたいな、窮屈な椅子に座ったままのほんの2時間ほどに大枚をはたく方がおかしい、百回コンサートに行けばその費用でTannoyの超高級スピーカが買えて、コンサートは終われば何も残らないのに、Tannoyはずっと音を鳴らし続けることができる、という反論はあるだろう。

でもそれは「音楽の魔法」を知らない人だと僕は思う。前にも一度書いたけど、エリック・ドルフィーというジャズのサックス吹きが若死にの最後の録音の、さらに最後のトラックが終わったあと、

When you hear music,
    after it's over, it's gone in the air.
        You can never capture it again.

と自身が語ってアルバムが終わっている。僕にはこれが「だから音楽はすごいんだ」みたいなありきたりの偉そうな発言なんかではなくて、「音楽の魔法」を紡いだ人がその魔法の「はかなさ」を、自嘲や諦めを込めた彼の実感として吐露した言葉のように思える。

もちろんその「魔法」を前提としない音楽もあるが、クラシックのほぼ全てジャズのほとんどロックの多くの音楽は「魔法」を必要とする(と、僕は思っている)。そして録音された音楽からはその「魔法」成分はすっきりと洗い流されてしまう。しかし、なくなったものがいったい何なのか、僕は言葉にすることがどうしてもできない。
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たこやきおやじ

decafishさん

おそらく、TANNOYレクタンギュラーヨークのことでしょうか。当時
50万円近い値段だったと思います。私も欲しかったのですが、毎日飲み歩いていたので、とても買えませんでした。(^^;
それにしても、入社して間もないころにこれだけの高級オーディオ機器を購入できるとは、decafishさんの居られた会社は給料が高かったのですね。(^^;
by たこやきおやじ (2018-12-02 11:25) 

decafish

コメントありがとうございます。
モデル名は全然わかりません。僕の見た目には「妙に奥行きの深い整理箪笥が二棹」という感じでした。
当時初任給が10万ちょっとで、飲まず食わずで暮れのボーナスを含めても足りない、よほど残業したのか、それとも他に手段があるのか、と寮にいたマニアたちの噂になりましたが、彼はどうやって手に入れたかは言わなかったようです。

ちなみに僕は、父から「どこに飛ばされるかわからないんだから身軽で行け」と言われて、最初の給料日までのことを考えずに3月末に徒手空拳で寮に入り、4月の2週目に同僚から借金してまわって、寮内では「修卒のくせにバカだ」、研修生の世話役だった研ナオコ似の庶務のおねえさんには「毎年一人はいるけど今年はあんたか」と、悲惨な門出でした。


by decafish (2018-12-02 16:20) 

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