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「火星の遺跡」読了 [読書]

ジェイムズ・P・ホーガン著、内田昌之訳、創元SF文庫。
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ここに書こうかどうしようか迷った。はっきり言えばホーガンとは思えない「カス」である。なら書かなきゃいいのに、と言われるかもしれないけど、僕は雑誌の提灯記事みたいなのは書きたくないのであえて書くことにする。それと一言、刺さった話があったので....

火星に人間がたくさん暮らすようになった未来。地球では権威主義がはびこり、若手の研究者やベンチャーは地球を離れて火星で研究や事業を起こすようになった。火星のある都市でサルダという研究者がテレポーテーションを実用化し、その事業化のための資金集めを兼ねて自ら実験台となってデモを披露した。「T」という実験室に入ったサルダは少し離れた「R」実験室から現れてデモは成功した、と思われた。テレポーテーションは実現しているのではあるけど、そこには欺瞞があった....

いつもは僕なりに咀嚼したあらすじを書くことにしてるんだけど、今回はここまででくじけた。このあらすじだけ読んだ人は、これは普通の、面白そうなSFかもしれない、と思うかもしれない。でもこのあとサルダの話は本の真ん中へんで終わってしまって、別の話になってしまう。共通する登場人物がいてしかも連続しているかのようなエピソードがあるので、一つの物語に収束するのか、と読んでいくけど結局は無関係な話だったということが最後にはわかる。

それだけでも物語の体をなしていないと言えるけど、いろいろなディテールがなんともご都合主義的というか、二つの事件を解決に導く主人公(サルダではない、キーランという、読んでいる限りはなんとも身元不明な人物)が活躍するためにお膳立てされたとしか感じられないエピソードが集積する。普通なら「伏線」となるべきエピソードなんだけど、あまりにあからさまに「あ、これはあとでこれに使うつもりだな」というのがミエミエのエピソードばかりが連続して、ハーレクインやある種のラノベを読んでるような置いてけぼり感がつのってくる。

でも、最初のサルダのテレポーテーションの話は面白そうに思えた。構成情報を転送することで実現するんだけど、分子レベルの成り立ちから送ろうとすると膨大なものになって実用的ではない。そこでDNA情報を使って圧縮する、というアイデアである。こないだ読んだDNA情報から生物が再構成できるというのより少しは考えたと言える。そのまま考えれば大した圧縮率にはならなさそうに思えるけど、そういう高次情報を使って圧縮するというのはあり得る気がする。

文字の書かれた本のページを画像として圧縮するより、文字列とそのフォントやレイアウトとして圧縮した方が、さらに文字列の文字ごとから単語ごとに圧縮すれば、ページ数が増えれば増えるほど圧縮率は上げられるはずである。生き物はいろいろなレベルで構造化されているので、構造を前提とした情報圧縮はあり得るだろう。ただ、再構成されたものがオリジナルと全く同じか、というのは「同じ」という言葉の定義に依存する(Equatableプロトコルの実装に依存する)。サルダはテレポートによって別の場所に再構成されたけど、それはすなわち「複製」をオリジナルとみなすことだった。

そのあと物語では「複製」によるアイデンティティの問題は置き去りにされて、後半はデニケン風の「トンデモ」話が中心になる。ホーガンは後期の作になるほど「トンデモ」との相性が良くなっていった。SFと「トンデモ」との境界は結構微妙ではあるけど、僕は前書いたように「ひとつはリアリティの中途半端さ(SFは真っ赤な大嘘だ)と、暗に語る人の優越を支える証拠となっていないかどうか(SFはむしろ語る人を新たな孤独の発見者としてしまう)と思っている」ので僕にとっては厳然と違いが存在する。それはフェイクニュース虚構新聞との違いと同じだと言っていい。

ということで、従って僕はこの本を全く評価しない。けど、ひとつだけ本題とは関係ないひとことが刺さった。

「人間は自分が知っていると思っていることを学ぶことはできない」

あいたたたたた....この言葉はエピクテトスのものらしい。この言葉は物語とは無関係に主人公との会話の中に現れる。ホーガンも気になったのかもしれない。エピクテトスは僕が子供の頃、ある人物から「読め」と言われて文庫を借りたことがあった。当たり前のことをなんだか偉そうに書いてるだけじゃん、と思った。この言葉があったかどうか覚えていないけど、あったとしても多分、そりゃそうだろ、当たり前じゃん、と思ってスルーしたに違いない。

歳を食って聞きかじったことが多くなって、なんでも知ってると思ってしまう。特に専門分野では自分でも他人からも似たようなことが繰り返し話題になるせいで、「それ知ってる」みたいな反応をしてしまう。ところがいざ突っ込んでみると全然わかってないことが多い。それこそ「チコちゃんに叱られる」みたいに、突っ込まれるとウロが来るという場面がある。

ついこないだ、光学に関しては素人の営業の連中に今度の新しい原理の製品の説明をしていた。そもそもはレーザから出た光を特定の強度分布に変換する光学系の話だった。どういう脈絡からかレーザ兵器の原理を訊かれて、光はエネルギーを運ぶことができる、それは原子力や火力で発電したのを電線で運ぶようなものか、エネルギー伝送という意味では同じである、電線で運んでるものと光で運んでるものは同じということか、と訊かれた。

なんだか話の流れがヤバいな、と思いながらも、エネルギーという物体があるわけではなくて、運ぶにはなんらかの媒体が必要で、それが光だったり電子の流れだったりする、ふーん、エネルギーって光だったり電子だったりするのか、エネルギーって何?と、何気なく言葉尻を捕まえただけの疑問を返されてウロが来た。「エネルギーって何って、..仕事をする能力のことで、....」

歳を食うと新しいことを学習するのが難しくなるのは、ひとつは脳細胞ネットワークの機能低下というのもあるけど、もうひとつはエピクテトスが指摘するように、「それ知ってる」と思ってしまってそれ以上追求しなくなるせいではないか。気をつけないといけない。

歳食って学習して何に使うんだ、という反論もあるけどな....
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