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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その5 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番をの調性感を聴く話。第1楽章の第1主題そのあと第2楽章第3楽章と聴いてきた。今日は第4楽章

今回で音楽は一通り聴いたことになる。次回にこれで僕は何が言いたかったのか、をまとめることにする。....

6  第4楽章

6.1  開始部

フィナーレはいきなりあからさまな引用で始まる。
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ワーグナーの「ワルキューレ」ジークムントのところにブリュンヒルデが現れる場面の、重苦しいトロンボーンのファンファーレみたいなフレーズ。岩山に立ったブリュンヒルデが恐ろしげに語るシーンが脳内再生されてしまう。あの大仰尊大自画自賛のワーグナー(失礼)が突如として音楽を占領する。1楽章のウィリアム・テルよりさらに異質な感じがする。

ところで、あとでもっと似てるところを見つけた。「神々の黄昏」ジークフリートが背中に槍を受けるシーン。舞台の上の人物たちが凍りついて「ハーゲン、お前は何をした?」と虚ろに問いかけると、ハーゲンが「誓いを破った罰だ」と答えるところ。こっちのほうがティンパニのリズムが似てる。このあとジークフリートは、寝ているブリュンヒルデに「聖なる花嫁、起きなさい」と語る夢を見ながら死ぬという、緊張感の高い劇的なシーンである。しかも「ニーベルングの指環」という4日もかかる楽劇の、実質的な主人公であるジークフリートが死ぬところである。こう書くといかにも意味ありげ、なんだけど最初に書いたようにそれを詮索しても無意味だと思っているのでやらない。

ワーグナーのここのところを抜き出すと
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この部分は、例の「葬送行進曲」の長い間奏に入る直前で、ティンパニのリズムは葬送行進曲の主題のリズムだけを取り出したものである(ちなみにこの「ジークフリートの葬送行進曲」は中学のとき「ワーグナー間奏曲集」みたいなレコードを買ったら入っていて、「なんてカッコいいんだ」と思ったことを思い出した)。

でもやっぱりワーグナーでは出てくるたびに長二度ずつ上がるのに、ショスタコーヴィチはどんどん下がっていく。ただでさえ重苦しく、しかも最低音の動きがちょっと変で置き去りにされたようになっているので、すごくくら〜い感じがする。

このブラスの暗いファンファーレみたいなのを音程だけもう一度書くと
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Gmの和音の一番上のd音が半音下がって全体としてGdimになって、次に最低音がfisに下がって一番上にeの音が追加されて、F#7の和音になっている。減三和音を経由して遠い調の和音に接続して、和音が変化するときは共通音を2音保持する(bとaisはエンハルモニック)という進行になっている。ワーグナーらしいなめらかに遠隔調へ接続する和声進行である。この事実をちょっと覚えておいて欲しい。

そのあとヴァイオリンにゆっくり「ラーファ↑ーミー」というフレーズが現れる。これはやっぱりワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の頭の音と同じで、ワーグナーの方はチェロのオクターブ下の音なんだけど、「トリスタンとイゾルデ」だと言われるともうそうにしか聴こえなくなるので不思議である。

ちなみに僕はワーグナーの作品で唯一好きで聞き返したのが「トリスタンとイゾルデ」だった。ライブで聴く機会はめったにないので録音でだけど、融通無碍な和声や、場合によっては言葉よりも雄弁なオーケストラのライトモチーフが面白かった。

マイスタージンガーオランダ人や、指輪なんかは最初は面白いと思って聴くんだけど、聴いてるうちに台本からではなく音楽から、押し付けがましさとかくどさとか偉そうな態度とか饒舌さとかが耳についてずっしりと疲れてくる。

でもまだリヒャルト・シュトラウスのオペラに比べると下品さがないのでまだマシかも。リヒャルト・シュトラウスはサロメ薔薇とか聴いたけど、もう残りの人生で全曲聴くことはないな。

いや、どうでもいいけど。

6.2  第1主題の提示

「トリスタンとイゾルデ」の引き延ばされたeの音が例のトリスタン和音につながると思いきや、半音階進行はなくなって、明るいハ長調のメロディが始まる。
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「ハ長調」と書いたけど、Cの和音は一度も出てこなくて、始まって3小節目でまた短くなった「ワーグナーセット」つまり「短三 → 減三 → 長三+七」の進行のあと「ラファーミー」が続いて、そのあとは5小節目ですぐに「変ホ長調」に転調してしまう。音色は澄んで明るいんだけど、どこか気弱そうな、ためらうような、調子がある。

6.3  第2主題

しばらくそうやって続いたあと、金管が全部そろってこんなのを吹く。
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トランペットが最高音でメロディになってるんだけど、トランペットにしては低く狭い音域で、さらに低くホルンとトロンボーンとチューバが和音伴奏をしている(楽譜は読みづらいのでオクターブあげた)。これが第2主題だと思えばそう思えなくもない、というぐらいの微妙な位置づけである。

このトランペットは半音の多いフラフラとした旋律になっていて、伴奏和音は遠い調の接続になってはいるけど、18音全てが協和音で、しかもなんと全部短調の和音(短三度和音)で、最低音のチューバは全部その和音の根音になっている。普通に並べるとつながりや響きが悪かったりするので長和音も混じってあたりまえだし、最低音が全部ルートというのもあまりに素人くさく、その上どこかへろへろとしていて、ワーグナーの音楽には絶対に出現しない進行である。「覚えておいて欲しい」と書いた譜例の似たような半音の動きなのに、ずっしりとした粘着質の和音進行と比べてもらえればすぐわかる。

これがラフマニノフの「交響的舞曲」の引用だという人がいる。僕はあまりラフマニノフを聴かないんだけど、改めてiTunesライブラリを掘り返したらあったので聴いてみた。たしかにしょっぱなにそっくりなリズムのフォルテのテーマがある。でもやっぱりだからどうだ、という感じなので別にいいじゃね? それはそれで。

このあとすぐフルートとオーボエでこんなのが始まる。なんとなく不安そうな
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オーボエの主旋律は初めてのメロディだけど明らかに第1主題と同じイントネーションで、対旋律になっている低音フルートのフレーズはまたディミニシュトスケールでできてる。このやりとりが楽器を変えながら続いたあと、突然6/8拍子になってオーボエがさっきの第1主題の変形のメロディをさらに変形した
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なんだかすごく気弱そうな、はかなく踊るような調子で吹く。そしてこれも楽器を変えながらだんだん音程が低くなってファゴットに引き継がれ、音価が伸びていって最初のトロンボーンの重苦しいブリュンヒルデのファンファーレへと変形が収束していく。6/8拍子のオーボエがブリュンヒルデの先触れみたいになっている。

トロンボーンは冒頭と同じように、ただしさらに音程が下がって繰り返されるけど、こんどはティンパニがジークフリートの葬送のリズムの代わりに8分音符の着実なビートを刻む。

ここまでフィナーレなのにずっとひそやかで、はかなげで、どこか自信なさそうな音楽が続いてくる。完全に暗くはないんだけど、宵というか黄昏というか、どうにも中途半端な暗さである。

6.4  パッサカリア

そして忍び込むようにチェロとコントラバスのピチカートで長いパッサカリアの部分に突入する。このテーマも例によって重複があるけど12音が全部含まれている主題になっている。最初の、本来パッサカリア主題の提示にあたる部分にはずっとティンパニのビート(eとdisが交代する)が続いて、ときどきヴィオラの「e f e」という、なにやらぶつぶつ言ってるだけみたいな合いの手フレーズがはさまる。

これまでこの楽章ではほとんどビートがはっきりしなかった(ヴィオラの合いの手はその雰囲気を引きずっている)ので、ティンパニの8分音符の刻みと低音弦のピチカートの決然としたリズムは、弱音でわかりにくくはあるんだけど、この曲には珍しくなんだかすごくカッコいい。
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6.5  ショスタコーヴィチのパッサカリアの特徴

ショスタコーヴィチはこれまでもときどき大きなパッサカリアを書いている。僕が知っているだけでも、オペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」に間奏曲として入っているし、交響曲第8番の第4楽章ヴァイオリンコンチェルト第1番の第3楽章はまるまる1つの楽章がパッサカリアになっている。また、Op134のヴァイオリンソナタのフィナーレも短い序奏の付いたパッサカリアだと僕は考えている。僕が知らないだけで他にもあるだろう。

ちなみに「マクベス夫人」のパッサカリア主題は
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8番の第4楽章のは
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コンチェルトのは
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ヴァイオリンソナタのは
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古いパッサカリアは3拍子8小節でひとまとまりになっているけど、ショスタコーヴィチはかならずこのように中途半端な小節数を使う。例えば「マクベス夫人」では9小節、8番の交響曲も9小節、コンチェルトは17小節、ヴァイオリンソナタは11小節になっていて、この15番のパッサカリアも14小節という中途半端な小節数になっている(注意深く数えれば反復がすぐわかる)。

パッサカリアは低音主題なので同じ和音進行が繰り返されることになりやすく、わりと簡単に単調で平板になりやすいので、それを避けるためだと思われる(ヴァイオリン協奏曲の1番のパッサカリアでは一番最初の提示のときに三連符を伴ったホルンのファンファーレっぽいフレーズをわざと衝突するようにかぶせている。ヘ短調の比較的わかりやすい主題なのでそのまま提示するにはストレートすぎる、と思ったのかもしれない。そのあとの第2変奏で木管の和音に変わってその進行がショスタコーヴィチには珍しく素直で美しい)。

6.6  パッサカリア主題の対旋律

この低音に乗った対旋律が最初はクラリネットの低音で、そのあと弦楽で、それに加えてフルートで、と徐々に楽器と声部を増やしていく。そのどの旋律も半音階をたくさん含んだ、聴いていてどこに行くのかわからなくものばかりが現れる(そう言えば8番の第4楽章のパッサカリアの対旋律も半音階的だった)。その中にはあちこちにブリュンヒルデのファンファーレの音型が紛れ込んでいるように聴こえてしまう。和音としてではなく最高音だけなので、空耳みたいなものだけど。

この低音が5回繰り返されると、そのあとこのパッサカリアの特徴的なリズムはなくなってしまう。しかし音はチェレスタに引き継がれる。さっきの楽譜の低音主題の下にこのチェレスタの音を並べて描いた(実音はオクターブ上)。完全に音程をなぞっていることがわかる。

ここにかぶったホルンのソロメロディが、また輪をかけてわかりにくい。
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ほとんど調性感のない半音階でできている上にリズムも不安定で、どこに向かっているのか心配になるような音になっている。パッサカリアが始まって、主題はピアニシモのピチカートなんだけどリズムがはっきりしていて決然と聞こえる一方で、その上声の対旋律は、フィナーレの最初の気分をずっと引きずって、よりどころがなく不安そうな、あれこれ逡巡するような調子が多くて、ますますこれまでの楽章と全然違った気分に襲われる。

このチェレスタが終わると低音に主題が戻ってくるけど、リズムはないままで、すべての音を1小節に割り当てるせいで、びろーんと引き延ばされて小節数は増える。
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ここで徐々にクレシェンドしていって、対旋律も決然とした様子になっていく。32分音符が現れて全体が徐々に遅くなっていく(楽譜にその指示はなく、トゥッティの前2小節だけに「riten.」リテヌート、速度を落とせ、とある)。

6.7  トゥッティは「ロンドン」の引用か?

そして声部が整理されたトゥッティに入って、コントラバスとブラスにもとのリズムのパッサカリア主題がフォルテシモで返ってくる。
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主題そのものは長四度上に来ているが、単なる移調で音程関係は全く同じになっていて、弦楽の対旋律は第3、4変奏の変形である。

ちなみにこれを聴いてハイドンの最後の交響曲「ロンドン」の出だしを連想する人がいて、そういう人たちはこれも引用だと言っている。「ロンドン」の頭は
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確かに似てるんだけど、もしショスタコーヴィチがこれの引用を意図したとするなら、それまでの長いピアニシモでのパッサカリア主題はなんだったのか? ずっとピアニシモで「ロンドン」を引用してたとも言いたいのか? そんなバカなことはなく、これはパッサカリアの最後の第8変奏である。「ロンドン」の引用だと言う人は、おそらくピアニシモの低音ピチカートのあいだじゅうずっとお寝みになっていて、久しぶりの大きな音で目を覚まして、「う〜ん(なんかうるさいなあ)、あ、いつの間にかロンドンやってる」とでも思ったんだろう。

確かに、この部分はこの楽章唯一のトゥッティで、これまでも第2楽章では1カ所だけ、第3楽章は最後までトゥッティはでてこなかった。お寝みになるにはちょうどいい曲かもしれない。僕が「すごくカッコいい」と思っているピアニシモでのパッサカリア主題の出現を、全然「カッコいい」とは思わなかった人なんだろうな。

そもそもこのリズムはバロック期の古いパッサカリアにときどきあるサラバンドのリズム(2拍目にアクセントのある遅めの3拍子)である。バッハも無伴奏ヴァイオリンBWV1004のシャコンヌ(一般的にパッサカリアと同一視される)で、このリズムを使っている。ショスタコーヴィチがそんなことを知らずに書くはずはなく、ヴィオリン協奏曲のパッサカリアもこのリズムだったし、従ってますます「ロンドン」とは関係なくて、従って「ロンドン引用説」は「ロンドンロンドン(昭和のキャバレーのCMみたい)」と言っている人の空耳だろう。まあ、そう聴きたい人はそうすればいいだけなんだけど。

6.8  ショスタコーヴィチのパッサカリアの内的な位置付け

彼と同時代の作曲家でお互いお友達だと思っていたブリテンもパッサカリアを書いた。「ピーターグライムス」の間奏曲や、ヴァイオリンチェロピアノのそれぞれのコンチェルトでは一つの楽章全体がパッサカリアでできている(ブリテンはフィナーレにパッサカリアを置いた曲が目立つ)。しかしどちらかといえばショスタコーヴィチとは違って華やかで作曲技術を誇示するような作りになっているように僕には思える。でも僕はブリテンのパッサカリアはどれも作り込まれている感じがして好き。

一方ショスタコーヴィチのパッサカリアは彼にとってある種、特別な形式だと僕には思える。彼はパッサカリアになるとどれも深く思い込むような内省的で、しかもなんだかすごく注意深い音楽で、パロディや引用がたいていすごく少ない。僕にはパッサカリアはショスタコーヴィチが「本音を吐露する」ための音楽だ、と思える。もちろんその「本音」がなんなのかはわからないんだけど。

6.8.1  パッサカリア主題は7番の引用か?

だから、このパッサカリア主題が「交響曲第7番第1楽章の戦争の主題」の変形だ、という説も僕には納得できない。そもそも7番第1楽章の中間部のメロディは、ずっと昔にも書いたように、鼻歌のようなまとまりのないメロディ(18+3小節になってる)、しゃちこばったリズム(ぷいっぷいっ、と茶化したテレビCMが昔あった)、衝突してもまったく変化しない伴奏オスティナート、愚直にただかわりばんこに繰り返すだけのカノン、完全平行和音のハモリ、落語のお囃子か盆踊りみたいな伴奏リズム(てんつくてんとん)、どれをみても「戦争」なんていう抽象的なテーマとはかけ離れているように僕には聴こえる。

これはもっと卑近な「軍隊」、それも人間の集団としての軍隊、あるいは軍隊組織がテーマである、と僕は思っている。その音楽からは、粗野で滑稽で無神経で、愚鈍で蒙昧で知性よりも本能が勝っていて、無骨で威圧的で、硬直的で融通が効かず鈍重で、そして何かの拍子に制御が外れると手に負えなくなってしまう、ということばかりが伝わってくるように思える。こんなものを「戦争を描いた」なんて言われるとバルトークでなくてもイラッ、と来て不思議ではない、と僕は思う。

一方、この15番フィナーレのパッサカリアはいろんな経験を積んだ人が真面目に自分の内面を見つめようとする音楽だと思っているので、あんなマヌケな感じの7番の主題とはまったく正反対で、そんなものと一緒だという神経が僕には理解できない。

ところで「マヌケ」と言ったけど、僕はそれで7番を貶めるつもりはない。ショスタコーヴィチは7番で「戦争」なんていう抽象的なものを描いだのではなく、もっと具体的な軍隊そのものと、それによる人々への蹂躙を描写的に描いたと思っているだけである(偉そうに「戦争のテーマ」なんて名前で呼んでいる人がマヌケだ、と言っていると思っていただいてかまわない)。

6.9  パッサカリアの締めくくりと再現部

7番の話はおいといて、トゥッティでは低音がパッサカリアの主題を全部辿って、もういちど主題の頭に戻って1小節だけ入ったところで、こんな不協和音がわりこんで、疲れ果てて膝が折れるようにトゥッティが終わる。
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この和音も12音のうち9音が含まれるなんともぐちゃ、とした音だけど、管楽器は同じ音色どうしが衝突しないように分かれている。つまりオーボエだけ、ホルンだけをみると三度や四度や五度で、二度や七度にはなっていない。これもわざと衝突を避けたと思われる。この和音がディミヌエンドして管が終わって弦だけになると、その不協和音さ加減がよくわかるようになる。その間、ティンパニがパッサカリアのリズムを打ち続けて、低音弦がそれに答える形になってるけど、そのうち第1主題の後半部分を思い出すようにして力を失っていって、4拍子に戻ってくる。

そして第2主題(4-3)が弦のピチカートで反復されて再現部に入ったような気分になる。経過部からワーグナーを経て主題が返ってくる。今度はイ長調の調号がついて、伴奏も長和音が増えてるけど、気分はそれほど変わらない。主題はそのまま経過部をなぞったあと、トゥッティ最後の和音(4-10)が弱音器付きの金管で思い出される。それに答えるように第2楽章に出てきた不協和音(2-7)が全く同じ音程で木管と弦で鳴らされる。まるで不協和音どうしは関係があるとでも言っているように聴こえる。

そしてチェレスタに半音階的なフレーズが続く。これはまた前半12音で半音階が網羅される第2楽章と同じパターンで、後半は12音にhの音以外が網羅される(続く第1楽章のテーマにはそのH音が入っている)フレーズになっている。
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6.10  コーダ

ここから弦のピアニシモでaとeの白玉音がずっと最後まで続く。その上にたくさんの打楽器がリズムを刻んで、ときどきティンパニでパッサカリアのリズムがあったり、第1楽章の主題があったり、シロホン(木琴)でパッサカリア主題の途中の5小節目からの音程を(半音上で)
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さらっとなぞったりする。これも気が付きにくいけど、ちょうどヴァイオリン協奏曲の第1番のフィナーレに3楽章のパッサカリア主題が猛スピードで紛れ込むのによく似ている。

それぞれが入れ替わるたびにだんだん断片化していって、短くなる。最後にシロホンがフォルテでcisの音を連打するので、完全にAメジャーの和音になっているけど、音色のせいかつるんとした感じであっけらかんと終結に向かうような印象が与えられる。最後は残った弦とグロッケンシュピール、チェレスタ、トライアングルで三度音を欠いた状態でmorendo(だんだん遅く弱くしていく、という発想記号だけど、もとの意味はマーラーが交響曲9番の最後に書いたersterbendと同じで、「死んでいくように」)で終わる。

6.11  終結部

僕はこの最後の部分を初めて聴いたときから大好きだった。こういう弦の白玉とピアニシモの打楽器の組み合わせは「鼻」や4番の交響曲2番のチェロ協奏曲にもあるけど、この部分が一番美しいと僕は思っている(「引用だ」「引用だ」と言う人たちはここも引用だと言っているが、僕には逆に4番やチェロコンチェルトが15番のこの部分の「先ぶれ」だと聴こえる。なぜなら4番では間奏曲的な打楽器部分と余韻をもった終結の白玉部分に分かれているし、チェロコンチェルトでのピアニシモの打楽器は、主役であるチェロの長く伸びた白玉d音への添え物という感じで、15番のこの部分のような、静かではあるけど重要な結論だ、というようにはなっていない、と思えるからである)。

ショスタコーヴィチの訃報の直後だったと思うけど、実子マキシムの指揮した最後の交響曲のソビエトでの録音が日本でもレコードとして発売される、というので高校生だった僕は飛びついて買った。僕は中学のとき交響曲5番のフィナーレをブラスバンドでやろうとしてあっさり失敗して、そのすぐあとカラヤンが録音した10番を聴いて、ショスタコーヴィチにもこんな綺麗な音があるんだ、なんてトンチンカンな感想を抱いていた。マキシムのレコードを家で鳴らしてみて、なんだかブラスのフォルテが割れるひどい録音だ思った以外は、実はよくわからなかった。でもこの最後だけは不思議ななんとも言えない気分になって(それがなぜだかわからなかったけど)好きになった。

ちなみに、音が割れるのは録音のせいではない、と気がついたのは大学に入ってムラヴィンスキー/レニングラードフィルが京都に来たとき聴きにいったそのコンサートで。なんの曲だったのかもう覚えていないんだけど、ブラスのフォルテが割れ鐘のようだったのだけは今でも覚えている。ロックのライブのように耳が心配になった。ソビエトのオーケストラはこんななのか、と当時は驚いた。

それはどうでもいいんだけど、いまでもこの部分はやっぱり大好きで、僕の葬式の最後にこの最後の40小節を無限ループにしてずっと鳴らそうと思っている。って死んだ後のことでちゃんと準備しておかないと実行されないので、早い目にとことん作り込んだMIDIファイルを残しておこうと思っている。
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