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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ [クラシック]

ちょっと気分を変えて、音楽の話。僕の好きな作曲家十人の中に入るショスタコーヴィチ。

ショスタコーヴィチは多作家で作品番号のついた曲だけでも147曲ある。中には2時間を超えるオペラや48曲をひとまとめにした曲集にもひとつの作品番号がふられているだけである。さらに膨大にある映画音楽(作品番号がふられたものだけでも35曲)はほとんどがひと作品1時間を超えていて、その多くの部分で音楽が鳴り続けている。ショスタコーヴィチが作曲した音楽の総演奏時間は何週間ぶんにもなるはずである。

僕がショスタコーヴィチの音楽を知ったころ、もう半世紀前だけど、彼はまだ存命で、当時は冷戦の真っ只中でしかも体制御用作曲家とのレッテルが貼られていたせいで、ショスタコーヴィチの作品のうち主だったもの、いくつかの交響曲と協奏曲ぐらいしか日本で演奏されることはなかった。声楽は言葉の問題もあって演奏機会はさらに少なかったし、映画はそもそも西側で公開されることもほとんどなかった(子供の頃母親に連れられて三番館で「戦争と平和」を見た。延々と戦争の場面が続いて、長くて人がいっぱい出てきて退屈でしかなかった)。

彼の死後ソ連が解体してロシア国内での評価が再検討されていった。同時に西側でも冷戦時代の障壁はなくなって、彼のイメージも徐々に改善されてきた。日本でも演奏会に取り上げられたり録音されたり、映画を含めていろいろな作品に接することができるようになった。そして今、YouTubeでは著作権的に微妙なものも含めて、手軽に手っ取り早く、ショスタコーヴィチのいろいろな作品を見たり聴いたりすることができる。

ところで、ショスタコーヴィチの映画音楽というと、すぐ例のワルツばっかりが取り上げられる。僕にはあれが「美しいメロディ」にはぜんぜん思えなくて、あえて言うならばせいぜい「うらぶれたチンドン屋のジンタ」ぐらいにしか聴こえない。まあ、僕には「美しいメロディ」を聴き取る力がないらしいので、それは無視してもらって構わない。

交響曲や協奏曲を聴くだけではわからないショスタコーヴィチの違った面がわかる曲がいくつもある。面白いので、ここでまとめて聴いてみようと思った....

若い頃の作品

「スケルツォ嬰ヘ短調op.1」
0919op1.jpg ショスタコーヴィチは若い頃、「神童」「天才」と言われていた。そのことがわかる曲。スケルツォの名前がついているけど4拍子のアレグレット。ロシア風のメロディと渋めの音色でわかりやすく展開される。これが実は彼の13歳、日本で言えば中学二年生のときの作品だということに驚かされる。全体としてはちょっとしなやかさに欠けるけど、いくつかの新しいフレーズが出てきては気の利いた転調も使われて対位法的に最初のテーマが展開され、3拍子の中間部との対比があってしっかりと構成されている。それになによりオーケストレーションが巧みで、特に突出しやすい全合奏のフォルテでの金管の扱いに手慣れた感じがあって、この曲を書くまでにオーケストラの研究を積み重ねたに違いないことがわかる。

ちなみに、僕の13歳の頃はただのSF小僧、音楽小僧の、ふだんはただぼーっとしてるだけの成績最下層の、何も考えてない劣等生だった。ショスタコーヴィチのこの曲には恐怖さえ感じてしまう。

「10曲の格言集op.13」
0919po13.jpg これは彼が21歳のピアノ曲。父親が亡くなったり自身も結核を患ったりしながら書いた音楽院卒業制作の交響曲第1番が西側でも取り上げられたりして一躍有名人になった。音楽院の旧態依然としたアカデミズムが気に入らなかったのと、家計を助けるための映画館でのピアノ弾きアルバイトで身についた今流行の音楽と、音楽院で知り合った急進的な人たちから教わった西側を含めた前衛的な音楽との接触が彼のこの頃の趣味を決定しているように思える。

単純な装いがあったり無機的な音色が連続したり、サティを連想させるのやプロコフィエフのパロディみたいなのがあったり、かと思うと訥々とした旋律でフーガをやったり、最後の曲にいたっては白鍵だけ(最後の数小節にgisが現れるのと最後の和音がA9で、黒鍵はそれで全部。ちなみに、白鍵だけの曲というパターンはOp.87「前奏曲とフーガ」の第一フーガが同じである。こちらのほうが徹底していて全107小節に黒鍵は一切出てこない)だったり、とこの頃のショスタコーヴィチの趣味をよく表しているように感じる。僕はとくに第2曲「セレナード」と第7曲「死の舞踏」が好き。

最初の舞台音楽

これは前もちょっと書いたけど若いショスタコーヴィチのハジけっぷりが現れていてすごく面白い。シュールなストーリもさることながら、10声を超える対位法がそこかしこにあって、偉そうな警察署長の超ハイテナー(最高音はたぶん上3線のEで、これを表声の音色で歌わないといけない。これを演じられる歌手は限られるだろう。ちなみにYouTubeで見られるふたつは両方とも裏声を使っていてエキセントリックさが弱まっている)、打楽器だけの5分を超える間奏曲、調子の狂ったような管楽器だけのアンサンブル、通俗野卑としかいいようのない歌、そういった普通のクラシック音楽ではあまり聴かない音の塊がこれでもかと押し寄せてきて、好きなんだけど聴き終わるとぐったりと疲れる。

ちなみに、髭剃りのシーンで始まることとか、偉そうな人物にハイテナーを割り当てるところとかが、ベルクの「ヴォツェック」と似ているとよく言われる。しかし似ているのはその2点ぐらいで、音楽は全く違う、と僕は思っている。少なくとも「ヴォツェック」のほうが音楽としてずっと「格調高い」と思える。楽譜を見れば譜面の1ページ目から緻密さが伝わってくる。一方、「鼻」の場合「格調低」さの後ろに隠された「何か」、気がつかなれば通り過ぎてしまうような「何か」があるような気がするんだけど、どうだろうか。

「劇音楽「南京虫」op.19」
0919op19bedbug.jpg 劇作家メイエルホリドの依頼で作曲した戯曲の付帯音楽。メイエルホリドからはその前衛的な姿勢と実験性、誇張された即物的な描写、グロテスク趣味など、大きな影響を受けたと言われている。そのメイエルホリドから「脳みそが空っぽになる」と評された音楽。調子っぱずれのトランペットでいきなり始まって、音程が狂ったようなクラリネット、スライドグリッサンンドばかりするトロンボーン、フレクサトーンのふざけてるとしか聴こえないソロ(ちなみにフレクサトーンはこの頃の作品に盛んに使われている)、馬鹿してるのを隠すようにおもねったソプラノサックス、調子いいだけのバスのリズムに乗ったから騒ぎするかのようなトゥッティ、間抜けな超低音チューバ、お約束の合いの手を入れる大太鼓とシンバル、あまっちょろいバラライカとギターの酔っぱらい歌、などなど、さすがに後半は落ち着いてくるけど、聴いていてほんとうに脳みそが空っぽになりそうな気がする。いや、聴く前からそうだろ、という指摘は甘んじて受けよう。

「バレエ「黄金時代」op.22」
0919op22goldenage.jpg このなかにある「ポルカ」は特徴的なシロホンのソロが中心テーマになっていて、けっこう有名らしい。おどけ方は「南京虫」に比べるとオーソドックスで、反感を買わない程度に抑えると言った制御がなされている感じがする。「ダンス」は「ペトルーシュカ」を連想する手風琴みたいな伴奏に乗ってこの頃のショスタコーヴィチのパターンである垂れ流れるような切れ目のないフレーズが飛び跳ねる。このへんになると僕らもよく知っているショスタコーヴィチのオーケストラの音色に近くなってくる。

そして映画音楽を量産する

「映画「ひとり」の音楽op.26」
映画
0919op26alonefilm.jpg

その組曲
「バレエ「ボルト」op.27」 バレエ
0919op27bolt.jpg

その組曲

「劇音楽「ルール・ブリタニア」op.28」
その組曲
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「映画「黄金の丘」の音楽op.30」
その組曲
0919op30goldenhill.jpg

「映画「呼応計画」の音楽op.33」
組曲の一部

0919op33counter.jpg

このうち「ルール・ブリタニア」以外は組曲がどれもトランペットのファンファーレで始まる。この頃のショスタコーヴィチは作品を発表するたびにいろいろな毀誉褒貶を浴びていた。一方でTRAMというプロレタリア派の劇場の音楽監督も務めて、そこでは前衛性の控えめな、音楽の素人にも理解しやすい音楽を、ある面は必要に迫られて、またそういう分野でも自分の実力が発揮できると考えて作曲していた。どんな音楽かと具体的に言えば、明るく派手なオーケストラの音色、はっきりしたリズム、覚えやすいメロディ、突飛な転調や変拍子やテンポの変更がなく、直立したまま進んですぱっと終わる。わかりやすいかもしれないけど、こうやって並べて聴いてみるとどれもおんなじようで、空疎な音楽に聴こえてしまうのは僕だけか?



































プラウダ批判を受ける

「映画「マキシムの少年時代」の音楽op.41」映画その序曲 0919op41maxim.jpg
ショスタコーヴィチは26歳のときオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」を発表して当時大当たりした。ところが発言力のあるひとたちからは批判をあびてしまう。まず脚本の性描写が槍玉にあがり、その矛先が彼の音楽に向くことになった。今の日本とかとは違ってそのころのソ連は批判を聞き流すというわけにはいかず、場合によっては批判が直接作家生命に響くことがあった。このあとそれがどんどんひどくなるわけだけど、ショスタコーヴィチはすでに有名人になっていたせいもあって、批判に対して具体的に反論するなり従うなりという態度を示す必要があった。このころから彼は表向きは批判に恭順な態度を示しながら、その中に自分のやりたいこと、こうありたいと思うことをなんらかの形で埋め込んだり隠したり、ということをするようになる。

この「マキシムの少年時代」の序曲も、終始祝典風の明るい曲調でほぼ全編フォルテのツーコードのトゥッテイだけでできている。低音の四度交代のオステイナートに乗った木管のギャロップで始まって金管の行進曲がわりこんでくる。さらにトロンボーンがゆったりしたメロディを鳴らす。これが対位法的というよりは無関係に鳴っているように聴こえる。とくにトロンボーンのテーマは三拍子で、フレーズの切れ目が金管とずれていく。批評家の誰かひとりが「これは何だ?混乱している」と言い出したりしたら一気に槍玉にあげられるかもしれない、その微妙な線を瀬踏みしているかのように僕には思えるけど、どうだろうか。

「プーシキンの詞による4つのロマンスop.46」
0919op46pushkin.jpg 第1曲「復活」
第2曲「自害の前に」
第3曲「無遠慮な眼差し」
プーシキン没後百年の節目という名目で作曲された。この前年の1月に「音楽の代わりの支離滅裂」で「マクベス夫人」を、さらに2月に「バレエの偽善」で「明るい小川」を批判する論評がプラウダに掲載された。どちらも無署名だったが当時のソ連の人たちにはその背後にスターリンの意思を感じ取ることができた。味方になってくれた友人は立場を失ったり変節した。同時に批判されたメイエルホリドは自分よりもショスタコーヴィチを擁護する発言をして吊し上げられた。時を同じくして彼の義理の兄、彼の姉であるその妻、義理の叔父、彼の妻の母が次々に姿を消した。また彼の作品の作詞者や台本作者が処刑されたり、ずっと援助してくれていたトハチェフスキー元帥が逮捕された(彼はその直後拷問の末銃殺刑に処せられて肉親の多くも粛清された)。ショスタコーヴィチはリハーサルを進めていた新作の交響曲4番のパート譜を自ら回収して初演を撤回する。

そのころこの歌曲は作曲された。ピアノ伴奏とオーケストラ伴奏版があるが、オーケストラ版は最後の曲がなぜか欠けている。初めから最後までずっと抑えた表現で、音色的にはマーラーのオーケストラ伴奏歌曲を思わせる、どこか足が地につかないような儚い感じのものになっている。深く思い沈むような調子はこのあとのショスタコーヴィチの音楽を連想させる。さっきの「マキシムの少年時代」序曲と合わせるとこの時期、彼の内面に大きな転換点があったことが理解でそうな気がする。

この後ショスタコーヴィチは交響曲第5番で起死回生を図って一応それに成功するわけだけど、交響曲第5番の話は有名なので、ここでは書かない。彼自身はそれこそ薄氷を踏む思いだっただろう。しかしそれでひと段落、というわけにはいかなかった。

次の危機の時代の音楽を次回。
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たこやきおやじ

decafishさん

子供の頃に見られた「戦争と平和」は、セルゲイ・ボンダルチュク監督のでしょうか。私は中学生の時見ました。戦争場面は圧巻でした。また、リュドミラ・サベーリエワの美しさに見とれてしまいました。
私は、この映画でチャイコフスキーの序曲「1812年」の意味が良く分かった気がしました。(^^;
ショスタコーヴィチは以前decafishさんが記事に書かれたのに触発されてCDを買いましたが、それ以来聴いていません。(^^;

by たこやきおやじ (2020-10-19 09:54) 

decafish

コメントありがとうございます。
「戦争と平和」その通りです。たぶんロードショウの次の年にはもう三番館に降りてきていました。僕にはとにかく長い、という印象が一番でした。ロードショウと違ってぶっ続けで全編やったのかと思います。かわいいナターシャも最初にちょろっと出てきただけであとは延々戦争シーンとおっさんがたくさん出てくるシーンの連続という印象でした。小学生には厳しいかったんだと思います。

実はその前年に同じ映画館でヘップバーンがナターシャをやったずっと古い映画を見ていました。こっちは小学生にも理解できて、しかもこっちのナターシャの方はなんというか、完璧美人だったので、僕にはサベーリエワには「美人の田舎のお姉さん」という印象を持ちました。

今見ると印象は違うかもしれませんが、もう2時間を超える映画は別の意味で厳しいです。

ショスタコーヴィチはできればいろいろ聴いてみて欲しいと思います。わかりにくい面もありますが、表向きの面を一皮剥くと、正直で作為のない音楽だと僕は思います。外からの圧迫を受けておろおろして混乱したり破綻するところもあるのですが、それが「ショスタコーヴィチの立場だったら」と思うとひょっとするとそれがごく普通かもしれない、と僕には思えるのです。

今回のネタはあと3回やるつもりです。ぜひ最後までお付き合いください。
by decafish (2020-10-19 20:52) 

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