YouTubeで聴くショスタコーヴィチ その2 [クラシック]
前回の続き。前回はショスタコーヴィチの若書き作品と、人生が急展開するプラウダ批判の前後に書かれた映画音楽などの作品のうちYouTubeで聴ける作品をあげた。じっくり聴くと彼の作風の変化がわかるような気がする。今回は彼に振り下ろされる二度目のハンマー「ジダーノフ批判」前後の作品から。
ちなみに、エピソードは千葉潤 著「ショスタコーヴィチ」とhttp://www.shostakovich.ruのLife Chroniclesから引用、あるいはその要約。どちらも情報量が多い。ロシアサイトのほうは「新全集」の進捗を紹介するのが目的のようだけど、それ以外のページもよく整備されている。知らない話がいっぱいある....
第5交響曲の成功でプラウダ批判をかわしたあともスターリンの粛清は広がっていった。音楽や演劇だけにとどまらず、生物学や経済学などの科学の分野や、一般の市民にまで及んでいって、皆お互いを監視し、密告し合うような社会になっていったらしい。ショスタコーヴィチは「いつ扉が叩かれるか(秘密警察が逮捕に来るか)」と恐れていた。
第2次世界大戦の間は、ソビエト政府はショスタコーヴィチをなにかにつけ宣伝に利用し続けた。7番の交響曲は「ナチスに対峙するソビエト」の象徴として西側にも紹介され(バルトークはそれを皮肉る音楽を彼の「管弦楽のための協奏曲」にあからさまに埋め込んだ)、ショスタコーヴィチの肖像画が「爆弾がレニングラードで爆発している最中」というキャプション付きで「Time」誌の表紙を飾った。そのソースと思われる丸メガネに鉄兜で不安そうな表情の、どこか間抜けな感じの写真も「レニングラードで防災活動中のショスタコーヴィチ」として西側に流布した。このように盛んに彼を利用していたにもかかわらず、しかも体制批判のような問題発言行動が彼にあったわけではないのに、戦争が終わるとまた批判の矢面に立つことになった。
ショスタコーヴィチがこの曲集を作曲中に「ジダーノフ批判」が起こる。1948年2月のムラデリが書いたオペラの吊し上げに始まり、僕らが今もよく知っている作曲家たちに及んだ。そのうち徐々に「プラウダ批判」のときと同じように批判の矛先はショスタコーヴィチに集中することになった(同時に槍玉に上がったプロコフィエフは病気で動けず、ミヤコフスキーは作風を変え、カバレフスキーはもともと前衛的ではなかった)。ショスタコーヴィチは4月の第1回全ソビエト連邦作曲家会議で壇上に呼ばれ強制的に自己批判の表明をさせられた。これは屈辱である以上に命の危険を感じたはずである。ジダーノフを追認する作曲家連盟の決議のあと父親が部屋の対角線沿いにずっと歩きまわっていていたと、当時12歳の娘のガリーナはのちのインタビューで答えている。
この頃はショスタコーヴィチのユダヤ音楽研究の収穫期にあたっていた。単なるエキゾチズムではなく、また借り物でもなく、自分の音楽言語としてユダヤの音楽を咀嚼しつつあった。「ユダヤの民族詩から」には、僕でもそれとわかるユダヤ風の音階とリズムとが使われていて、またそれに対してあまりに「それ」っぽくない、色づいていない和声がついて、ショスタコーヴィチにしてはどこか伸び伸びとした理解しやすく親しみやすい音楽になっている。
ユダヤ風の音階と微妙な転調が使われているせいで、ビブラートが大きく音程の曖昧な歌手によると、なにをやっているのか全然わからなくなる部分がある。とくにハモリのある部分で音程が曖昧になると気持ち悪くなるほどだけど、音程がしっかり伝わる歌手だと悲哀を含んだ滑稽さといった感じのメロディが浮き上がる。この曲はオペラ歌手に歌わせない方がよい、と僕は思う。
この曲集は終わり近くになってなんとなくロシア風の音色になっていく。これは千葉潤氏の本によれば最初の8曲を作曲した時点でジダーノフ批判があり、ハッピーエンドに方向転換することで批判を回避しようとしたのではないか、さらに「交響曲第5番のフィナーレと同様のアイロニーとも考えられるのではないか」と書いている。
前半8曲は誕生日の恒例として身内に披露されているが結局、完成後の初演はされなかった。その年の8月にはイスラエルが建国し、スターリンはその翌年1月に「根無草のコスモポリタン」と呼んで大勢のユダヤ人たちを逮捕していく。
作曲家会議で自己批判をしたとみなされ、処刑やシベリア送りは免れた。しかしソ連芸術委員会は彼の音楽の多くに演奏禁止の通達を出しレパートリから削除した(交響曲の6、8、9番、ピアノ協奏曲1番、ピアノソナタ2番、ピアノのための「格言」など。交響曲2、3などは残された)。
「映画「ベルリン陥落」の音楽Op.82」
さらにその年の8月には音楽院を何の通告もなく解雇された(「総局の命令によって追放」とだけ掲示されていたという)。安定的な収入源を絶たれた彼は、ひとつは生活のため、もうひとつは批判に答えているという態度を示すため、映画音楽を量産していった。若い頃の映画音楽に比べると浮ついた調子はなく、がっしりと渋く、緻密になっていることがわかる。とくにオーケストレーションはますます精巧に、よく鳴り響くようになっている。
「映画「忘れ難き1919年」の音楽Op.89」
しかしここにあげた演奏を聴いてみると、以前の映画音楽には大衆向けとはいえ彼の個性が盛り込まれていると感じられるのに、これらの音楽の、金管の咆哮が伴うフォルテのトゥッティが現れるたびに、あからさまに迎合的で内容的には空疎であることが伝わってくる。とくに「忘れ難き1919年」のラフマニノフパクリのような安易さは驚きでさえある。それだけ彼は必死だった、ということなのかもしれないが、僕には聴くに耐えない。
「オラトリオ「森の歌」Op.81」( こっちの方が音はいい)
これはおそらく交響曲第5番についで有名な曲。僕の中学だと思うけど音楽の教科書に第4曲の「ピオネールは木を植える」の音符があったのを覚えている。
ソビエトの人たちはショスタコーヴィチが交響曲第5番で鮮やかに返り咲いた(彼自身の認識とは食い違っていたが)ことを覚えていてジダーノフ批判に対してもそれを期待する気分が盛り上がっていった。映画で一緒に仕事をした詩人のドルマトフスキーから植林計画の話を聞いてこのオラトリオを計画し、49年の夏の間に一気に書き上げ(自筆譜によると7月に開始されて8月15日が最後の日付になっているらしい。2独唱と児童合唱を含む混声合唱と12本のバンダを含む3管オーケストラの40分の曲を2ヶ月足らずで書いたことになる)、その11月初演にこぎつけた。初演は大成功で二度目の劇的な復帰を果たしたが、西側に対しては彼の変節漢、体制御用作曲家の印象を決定的にした。
戦争で荒廃したスターリングラード(現ヴォルゴグラード)を大規模な植林で自然改造する計画を歌う内容だが、その計画はスターリンによってもたらされて、党が導き、計画の進捗を「レーニンが生きて見ることができたら」と歌う、あからさまな歌詞だった。しかし音楽はこのころの映画音楽とは少し違うように僕には聴こえる。スターリン賛美という内容は「ベルリン陥落」とあまり違いはない(作品番号がひとつあとで、よく似たフレーズや音響が現れる。映画の公開が1959年なので作曲は「ベルリン陥落」の方がおそらく先)が、ただふくよかに鳴り響くだけで魂の抜けたような「ベルリン」に比べると彼の意志のようなものが感じられる。
ちなみにこの1978年のスヴェトラーノフ演奏の録画には日本語字幕がついていて何を歌っているのかわかりやすい。しかし明らかな意訳である。62年に作詞家本人による改訂があって、あからさまにスターリンを名指しする部分は変更されているけど、個人崇拝から共産党礼賛に書き換えられただけで、例えば「レーニン」の名は残ったままになっていて、日本語字幕ではその部分は意訳ではなく単に削除されて文章としては途切れている。ソ連のアフガニスタン侵攻直前の冷戦真っ只中で、当時の日本人に抵抗なく理解されやすいように変更されているのであろう。
この曲に関しては次回もうすこし詳しく取り上げることにする。
ちなみに、エピソードは千葉潤 著「ショスタコーヴィチ」とhttp://www.shostakovich.ruのLife Chroniclesから引用、あるいはその要約。どちらも情報量が多い。ロシアサイトのほうは「新全集」の進捗を紹介するのが目的のようだけど、それ以外のページもよく整備されている。知らない話がいっぱいある....
第5交響曲の成功でプラウダ批判をかわしたあともスターリンの粛清は広がっていった。音楽や演劇だけにとどまらず、生物学や経済学などの科学の分野や、一般の市民にまで及んでいって、皆お互いを監視し、密告し合うような社会になっていったらしい。ショスタコーヴィチは「いつ扉が叩かれるか(秘密警察が逮捕に来るか)」と恐れていた。
第2次世界大戦の間は、ソビエト政府はショスタコーヴィチをなにかにつけ宣伝に利用し続けた。7番の交響曲は「ナチスに対峙するソビエト」の象徴として西側にも紹介され(バルトークはそれを皮肉る音楽を彼の「管弦楽のための協奏曲」にあからさまに埋め込んだ)、ショスタコーヴィチの肖像画が「爆弾がレニングラードで爆発している最中」というキャプション付きで「Time」誌の表紙を飾った。そのソースと思われる丸メガネに鉄兜で不安そうな表情の、どこか間抜けな感じの写真も「レニングラードで防災活動中のショスタコーヴィチ」として西側に流布した。このように盛んに彼を利用していたにもかかわらず、しかも体制批判のような問題発言行動が彼にあったわけではないのに、戦争が終わるとまた批判の矢面に立つことになった。
戦後の作品
「歌曲集「ユダヤの民族詩から」Op.79a」ショスタコーヴィチがこの曲集を作曲中に「ジダーノフ批判」が起こる。1948年2月のムラデリが書いたオペラの吊し上げに始まり、僕らが今もよく知っている作曲家たちに及んだ。そのうち徐々に「プラウダ批判」のときと同じように批判の矛先はショスタコーヴィチに集中することになった(同時に槍玉に上がったプロコフィエフは病気で動けず、ミヤコフスキーは作風を変え、カバレフスキーはもともと前衛的ではなかった)。ショスタコーヴィチは4月の第1回全ソビエト連邦作曲家会議で壇上に呼ばれ強制的に自己批判の表明をさせられた。これは屈辱である以上に命の危険を感じたはずである。ジダーノフを追認する作曲家連盟の決議のあと父親が部屋の対角線沿いにずっと歩きまわっていていたと、当時12歳の娘のガリーナはのちのインタビューで答えている。
この頃はショスタコーヴィチのユダヤ音楽研究の収穫期にあたっていた。単なるエキゾチズムではなく、また借り物でもなく、自分の音楽言語としてユダヤの音楽を咀嚼しつつあった。「ユダヤの民族詩から」には、僕でもそれとわかるユダヤ風の音階とリズムとが使われていて、またそれに対してあまりに「それ」っぽくない、色づいていない和声がついて、ショスタコーヴィチにしてはどこか伸び伸びとした理解しやすく親しみやすい音楽になっている。
ユダヤ風の音階と微妙な転調が使われているせいで、ビブラートが大きく音程の曖昧な歌手によると、なにをやっているのか全然わからなくなる部分がある。とくにハモリのある部分で音程が曖昧になると気持ち悪くなるほどだけど、音程がしっかり伝わる歌手だと悲哀を含んだ滑稽さといった感じのメロディが浮き上がる。この曲はオペラ歌手に歌わせない方がよい、と僕は思う。
この曲集は終わり近くになってなんとなくロシア風の音色になっていく。これは千葉潤氏の本によれば最初の8曲を作曲した時点でジダーノフ批判があり、ハッピーエンドに方向転換することで批判を回避しようとしたのではないか、さらに「交響曲第5番のフィナーレと同様のアイロニーとも考えられるのではないか」と書いている。
前半8曲は誕生日の恒例として身内に披露されているが結局、完成後の初演はされなかった。その年の8月にはイスラエルが建国し、スターリンはその翌年1月に「根無草のコスモポリタン」と呼んで大勢のユダヤ人たちを逮捕していく。
当時作曲した映画音楽
「映画「エルベの出会い」の音楽Op.80」作曲家会議で自己批判をしたとみなされ、処刑やシベリア送りは免れた。しかしソ連芸術委員会は彼の音楽の多くに演奏禁止の通達を出しレパートリから削除した(交響曲の6、8、9番、ピアノ協奏曲1番、ピアノソナタ2番、ピアノのための「格言」など。交響曲2、3などは残された)。
「映画「ベルリン陥落」の音楽Op.82」
さらにその年の8月には音楽院を何の通告もなく解雇された(「総局の命令によって追放」とだけ掲示されていたという)。安定的な収入源を絶たれた彼は、ひとつは生活のため、もうひとつは批判に答えているという態度を示すため、映画音楽を量産していった。若い頃の映画音楽に比べると浮ついた調子はなく、がっしりと渋く、緻密になっていることがわかる。とくにオーケストレーションはますます精巧に、よく鳴り響くようになっている。
「映画「忘れ難き1919年」の音楽Op.89」
しかしここにあげた演奏を聴いてみると、以前の映画音楽には大衆向けとはいえ彼の個性が盛り込まれていると感じられるのに、これらの音楽の、金管の咆哮が伴うフォルテのトゥッティが現れるたびに、あからさまに迎合的で内容的には空疎であることが伝わってくる。とくに「忘れ難き1919年」のラフマニノフパクリのような安易さは驚きでさえある。それだけ彼は必死だった、ということなのかもしれないが、僕には聴くに耐えない。
「オラトリオ「森の歌」Op.81」( こっちの方が音はいい)
これはおそらく交響曲第5番についで有名な曲。僕の中学だと思うけど音楽の教科書に第4曲の「ピオネールは木を植える」の音符があったのを覚えている。
ソビエトの人たちはショスタコーヴィチが交響曲第5番で鮮やかに返り咲いた(彼自身の認識とは食い違っていたが)ことを覚えていてジダーノフ批判に対してもそれを期待する気分が盛り上がっていった。映画で一緒に仕事をした詩人のドルマトフスキーから植林計画の話を聞いてこのオラトリオを計画し、49年の夏の間に一気に書き上げ(自筆譜によると7月に開始されて8月15日が最後の日付になっているらしい。2独唱と児童合唱を含む混声合唱と12本のバンダを含む3管オーケストラの40分の曲を2ヶ月足らずで書いたことになる)、その11月初演にこぎつけた。初演は大成功で二度目の劇的な復帰を果たしたが、西側に対しては彼の変節漢、体制御用作曲家の印象を決定的にした。
戦争で荒廃したスターリングラード(現ヴォルゴグラード)を大規模な植林で自然改造する計画を歌う内容だが、その計画はスターリンによってもたらされて、党が導き、計画の進捗を「レーニンが生きて見ることができたら」と歌う、あからさまな歌詞だった。しかし音楽はこのころの映画音楽とは少し違うように僕には聴こえる。スターリン賛美という内容は「ベルリン陥落」とあまり違いはない(作品番号がひとつあとで、よく似たフレーズや音響が現れる。映画の公開が1959年なので作曲は「ベルリン陥落」の方がおそらく先)が、ただふくよかに鳴り響くだけで魂の抜けたような「ベルリン」に比べると彼の意志のようなものが感じられる。
ちなみにこの1978年のスヴェトラーノフ演奏の録画には日本語字幕がついていて何を歌っているのかわかりやすい。しかし明らかな意訳である。62年に作詞家本人による改訂があって、あからさまにスターリンを名指しする部分は変更されているけど、個人崇拝から共産党礼賛に書き換えられただけで、例えば「レーニン」の名は残ったままになっていて、日本語字幕ではその部分は意訳ではなく単に削除されて文章としては途切れている。ソ連のアフガニスタン侵攻直前の冷戦真っ只中で、当時の日本人に抵抗なく理解されやすいように変更されているのであろう。
この曲に関しては次回もうすこし詳しく取り上げることにする。
2020-10-25 21:03
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