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Mathematicaで平面幾何学を扱う [日常のあれやこれや]

僕のちょんぼが各所に迷惑をかけていて、特に金型加工成形の現場からの信頼を減退させることになっている。損害額も今の会社にとっては結構痛手なのでなるべく回収できる方法を考えている。

そのせいで僕の通常業務は完全に停止しているけど、待ち時間も多いのでつい遊んでしまう。先日Mathematica12.0の新しい機能のGeometricSceneに気がついた。暇つぶしにはいい....

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よわりめにたたりめ [日常のあれやこれや]

レンズの設計ミスをみつけて、関係者に謝りと善後策のお願いをしてまわっていた。そんなことをしているうちに仕事場にもちこんでいた古いiMacがおととい火曜に立ち上がらなくなった。そういえば先週木曜は出張だったので水曜にシャットダウンして、帰ってきてから金曜も他のことをしていたので、6日ぶりのリブートだった。

8年前の仙台にいたころ買って、今の会社に持ち込んでHDDを交換したり、さらにハイブリッドHDDに交換したりして、ダマシダマシ使ってきたけど、どうやら限界らしい。セーフブートしたり、シングルユーザモードで立ち上げてfsckをかけたり、NVRAMをリセットしたり、いろいろやってるうちには立ち上がるんだけど、正常ブートするとやっぱりダメだったりする。どこが悪いんだろう。よくわからない。一度スッピンにするとたぶんなんとかなるんだろうけど、それは厳しい。

このiMacはいちおう4コアのCPUでディスプレイも21インチなので、ノートブックでは面倒な計算やXcodeはこれでやってた。しかし中の掃除してるのになぜか発熱が増えていて、緊急避難的kernel_taskが1コア分ぐらいずっと食ってるし、メモリも足せないのもあってこの半年ほどパフォーマンス的に難しくはなってきていた。もちろんこれが立ち上がらなくてもファイルはいくつかのクラウド経由でノートと同期してるので、何もできないということはないんだけど、やっぱり面倒。正直にいえば買い替え時期ではある。

でも仕事で使うのに新しく私物を買う、というのもおかしいので今の会社の経費で買いたい。未計上になるので、それはそれでめんどくさい。前の会社に比べればずっとマシだけどうるさい人もいるし。あ〜あ、いやなことは重なる、というマーフィの法則通りになってるな。
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素因数分解 [Swiftプログラミング]

久しぶりに仕事でやらかしてしまった。新しいガラス非球面レンズの設計で、ちょっとした計算間違いをして、それをもとに金型作ってレンズまで起こしてしまってから間違いに気がついた。レンズは使えなくはないんだけどもとの仕様は満足しない。ある仕様が微妙に違うだけで同じ設計思想に基づいたレンズの5機種目で気が緩んでいたのと、似たようなレンズなのに新規に金型から起こすのには僕自身は反対だったせいで、気乗りがしなかったのもあった。

急いで設計し直してから四方に頭を下げて回って、金型の追加工ができる範囲か硝財は使い回せるか加工成形スケジュールに押し込めるか客先への弁解はどうするかなどなど、慌てて善後策を探ってまわっているところ。もう5機種目で編集設計のレベルになってしまって、実は最終評価まで退屈なルーチンワークになっていた。そのせいかこういうドタバタのほうにかえって張り合いを感じてるのにふと気がついた。そういうのはジジイならでは、なんだろうな。もちろん周りには迷惑をかけることになるので、それはごめんなさい。



それはいいとして(何もよくないけど)、こないだからSwiftの練習のために、これまでObjective-Cで書いたアプリをSwiftに書き直している。仕事に使っているのと遊びで作ったのとを一緒に、書き換えやすい簡単なものからやっている。ずっと昔ここで公開して、そのあとほったらかしにしてるSpaghettiMazeMakerSTISPlotなんかも書き換えようと思ってるけど、このどちらも僕の書いた任意長さのFFTを使っていて、やはりfftwを使わずにそれも書き換えたい、と思った....

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気圧の影響? [Raspberry Pi]

台風が夜中に通っていった。夜3時すぎぐらいに頭が痛くなって目が覚めた。左膝も痛くなっていた。この左膝は中学から高校にかけて膝関節炎を患ってから、低気圧が近づいてくると痛くなった。歳をくってから低気圧が来ると膝と一緒に頭が痛くなることが起こるようになった。仙台にいたときかかりつけの医者に、低気圧と関係があるのか訊いてみると
「たぶんそれは気のせいです」
と言われた。でもあきらかに思い当たる原因がないのに頭や左膝が痛くなると、低気圧が近づきつつあって雨が降りそうなことが多かった。

今回低気圧の影響を受けたのは僕だけではなかったらしい....

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シャハムのベルク協奏曲 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はギル・シャハムでベルクのバイオリン協奏曲だった。僕はこの曲をブ○ッフやラ○なんかよりもずっといい曲だと思うし、ブラームスみたいにめんどくさくないし、ショスタコーヴィチ(の特に1番)やブリテンの協奏曲と並んでもっと演奏されてもいい曲だと思っている。

この曲は12音技法に従っているらしいけど、半音が衝突したり音色の違う楽器が悲鳴のように神経質な音を鳴らしたりということはあまりない。とは言え、それまでの古典派ロマン派のような、嬉しい悲しい楽しいといった感情のはっきりした音楽ではなくて、わかりにくいところがある。でも実際の人間の心の動きは、いつもそういった古い音楽のような情動失禁みたいな状態にあるわけではなくて、もっと何層にも重なり合った襞の多いもので、一色で塗り固めたようなものではない、曖昧ではないけどすっぱりと割り切れるものではないはずである。

その意味でベルクのこの曲は僕には自然に感じられる。調性や明暗や音色が移ろっていくけど、突然切り替わることはない。いつもグラデーションの中にある。集中力を持った演奏者による音を集中力を持って聴けばその機微が伝わるはずだと僕は思っている。そういう条件が整えば最後の6度9度の和音にカタルシスを感じることができると僕は思う。

シャハムは完璧なテクニックで決然と弾き進んでいく。余裕さえあるように聴こえる。改めてすごいバイオリンだなと思ってしまった。オーケストラにそういう決然としたところがもう少し欲しかった。曖昧なところがあると聴いている方はすぐ立ち位置を見失ってしまいそうになる。

ところで、シェーンベルクの、特に若い頃の曲はときどきワーグナーっぽいな、と感じるようなところがでてくるけど、ベルクのこの曲では、マーラーっぽいと思えるところがときどき出てくる。曲が脱力したところでそういう感じが多い。マーラーマニアの僕としてはちょっと嬉しい。まあどうでもいいことだけど。
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子供が死ぬ話 [日常のあれやこれや]

子供の頃、家族で歌舞伎を観に行くことがあった。当時はテレビでも日曜午後なんかに劇場中継があって、休日の昼食後の脱力した雰囲気のまま家族揃って見ることがよくあった。僕はよく理解できなながらも印象的なセリフなんかは覚えてしまっていた。「ととさまの名はじゅうろべえ」「ごしんぞさんへ」「さてどんじりにひけえしは」「ぜっけいかな」「みやづかえ」「しばらく〜」「ぶぐばぐ」...今から半世紀以上前、歌舞伎はいまほどお芸術ではなくて、ごくごく普通の庶民の楽しみのひとつだったんだろうと思う。

小さい頃はなんとも思ってなかったんだけど、高校生大学生となるに従って少し中身がわかるようになって嫌になった演目が僕にはある。歌舞伎によくある子供を死なせる話。君主の跡取りの首の代わりに自分の子を差し出したり、子に毒味をさせて苦しませた上に死なせたりと、なんの罪のない子供を自ら殺すなんて、理不尽極まりない、と思っていた。そしてそういう演目を見ながら、当時まだ存命だった祖母は本当に涙を流していた。

歌舞伎にある子供の死ぬ話がなんでそんなに不愉快に感じるのか、がこの歳になってほんとの理由がわかってきた。話に描かれた状況の理不尽さが我慢できないのではなくて、それを見て可哀想にかわいそうにと泣く涙が嫌だったんだ、泣きながらどこか嬉しそうな満足したような表情を隠しているように見えるのがいやだったんだ、ということが今頃になってわかってきた。

今日夕方に、親からの虐待で死んだ、当時5歳の女の子の、死の直前の日記のフレーズを、そのあと理不尽にも死ぬことがわかった上で、何度も何度もなんども繰り返すニュースを見ていてそれに気がついた。
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ヤルヴィ・ゲルネ「角笛」 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はゲルネでマーラーの「子供の不思議な角笛」だった。ゲルネは初来日の時に女房と藤沢で聴いて、いろんな意味で驚いたバリトン。みんなオペラばっかりやってリートをやる歌手が少なくなって寂しく思っていたので、すごく頼もしく感じた。そのうちあれよあれよと言う間にトップクラスのバリトンになって他人事ながら嬉しかった。

「角笛」は同名の童謡詩集からマーラーが選んだものを歌曲にしたもの。子供に見られる幼稚で残酷でわがままでグロテスクで視野の狭い愚かさを、マーラーが面白がって取り上げたかのような曲集になっていて、マーラーらしいと言うか、マーラーがその性質を自身に持っていて自己嫌悪を伴った共感が現れているんではないか、とも僕には思える。

ゲルネが歌うとそういうマーラーの皮相的なところはあまり目立たなくなるように聴こえた。それよりもオーケストラの長調と短調が気まぐれに入れ替わるときや、木管楽器の間でフレーズが受け渡されるときに音色が変化するのに従って、歌のニュアンスを微妙に変えていく。言葉以上の何かを音楽で伝えようとするマーラーの本来の意図がわかるような気がして、僕は気に入った。オーケストラがそこまで気を使って音を出してるか、というと残念感がちょっとあるような気がしたけど。

女房は僕の横で一緒に聴いていて、ゲルネが歌手としての盛りを過ぎたみたい、と言っていた。これまで聴いたゲルネはビブラートが少なく音程がはっきりわかる歌い方をしていたけど、今日のは確かに低い音で聞き取りにくいときがあった。高音では声の伸びを期待するような曲ではないのでよくわからなかったけど、女房は気になるところがあったようである。

50を過ぎたところだからバリトンならまだまだやれるはずである。ゲルネには頑張って欲しい。若い歌手でこういう知的なリート歌いが見当たらないのも残念である。僕から見たらみんなオペラをやって破れ鐘のような声を上げるせいで、脳みそと髄膜に隙間ができてしまって、知的な歌に困難が伴ってるんではないか、と思ってしまう。たまにはリートをやったほうが老後のためにもいいのではないだろうか。
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