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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ その5「森の歌」のどこが特別なのか [クラシック]

前回の続きでYouTubeにあるショスタコーヴィチを聴きながら、「社会主義リアリズム」に沿った作品を書くことになったふたつの事件とその周辺の話の最終回。

彼の「社会主義リアリズム」に沿った作品の頂点としての「森の歌」が、僕にはただそれだけではない「特別な作品」と思える、その理由について。今回はちょっと文字ばっかりが続くけど....

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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ その4「森の歌」続き [クラシック]

前回はショスタコーヴィチがジダーノフ批判を受けたあと、「森の歌」を作曲するに至ったエピソードを千葉潤 著「ショスタコーヴィチ」http://www.shostakovich.ruから拾ってまとめてみた。「森の歌」は彼に対する「御用作曲家」のイメージを決定付けた曲で、「ベルリン陥落」をはじめとするその前後の映画音楽と同列に扱われることが多い。

しかし僕は、それはちょっと違う、と思っている。今日はその理由となる具体的な特徴を音符を交えてあげることにする....

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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ その2 [クラシック]

前回の続き。前回はショスタコーヴィチの若書き作品と、人生が急展開するプラウダ批判の前後に書かれた映画音楽などの作品のうちYouTubeで聴ける作品をあげた。じっくり聴くと彼の作風の変化がわかるような気がする。今回は彼に振り下ろされる二度目のハンマー「ジダーノフ批判」前後の作品から。

ちなみに、エピソードは千葉潤 著「ショスタコーヴィチ」http://www.shostakovich.ruLife Chroniclesから引用、あるいはその要約。どちらも情報量が多い。ロシアサイトのほうは「新全集」の進捗を紹介するのが目的のようだけど、それ以外のページもよく整備されている。知らない話がいっぱいある....

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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ [クラシック]

ちょっと気分を変えて、音楽の話。僕の好きな作曲家十人の中に入るショスタコーヴィチ。

ショスタコーヴィチは多作家で作品番号のついた曲だけでも147曲ある。中には2時間を超えるオペラや48曲をひとまとめにした曲集にもひとつの作品番号がふられているだけである。さらに膨大にある映画音楽(作品番号がふられたものだけでも35曲)はほとんどがひと作品1時間を超えていて、その多くの部分で音楽が鳴り続けている。ショスタコーヴィチが作曲した音楽の総演奏時間は何週間ぶんにもなるはずである。

僕がショスタコーヴィチの音楽を知ったころ、もう半世紀前だけど、彼はまだ存命で、当時は冷戦の真っ只中でしかも体制御用作曲家とのレッテルが貼られていたせいで、ショスタコーヴィチの作品のうち主だったもの、いくつかの交響曲と協奏曲ぐらいしか日本で演奏されることはなかった。声楽は言葉の問題もあって演奏機会はさらに少なかったし、映画はそもそも西側で公開されることもほとんどなかった(子供の頃母親に連れられて三番館で「戦争と平和」を見た。延々と戦争の場面が続いて、長くて人がいっぱい出てきて退屈でしかなかった)。

彼の死後ソ連が解体してロシア国内での評価が再検討されていった。同時に西側でも冷戦時代の障壁はなくなって、彼のイメージも徐々に改善されてきた。日本でも演奏会に取り上げられたり録音されたり、映画を含めていろいろな作品に接することができるようになった。そして今、YouTubeでは著作権的に微妙なものも含めて、手軽に手っ取り早く、ショスタコーヴィチのいろいろな作品を見たり聴いたりすることができる。

ところで、ショスタコーヴィチの映画音楽というと、すぐ例のワルツばっかりが取り上げられる。僕にはあれが「美しいメロディ」にはぜんぜん思えなくて、あえて言うならばせいぜい「うらぶれたチンドン屋のジンタ」ぐらいにしか聴こえない。まあ、僕には「美しいメロディ」を聴き取る力がないらしいので、それは無視してもらって構わない。

交響曲や協奏曲を聴くだけではわからないショスタコーヴィチの違った面がわかる曲がいくつもある。面白いので、ここでまとめて聴いてみようと思った....

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シャハムのベルク協奏曲 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はギル・シャハムでベルクのバイオリン協奏曲だった。僕はこの曲をブ○ッフやラ○なんかよりもずっといい曲だと思うし、ブラームスみたいにめんどくさくないし、ショスタコーヴィチ(の特に1番)やブリテンの協奏曲と並んでもっと演奏されてもいい曲だと思っている。

この曲は12音技法に従っているらしいけど、半音が衝突したり音色の違う楽器が悲鳴のように神経質な音を鳴らしたりということはあまりない。とは言え、それまでの古典派ロマン派のような、嬉しい悲しい楽しいといった感情のはっきりした音楽ではなくて、わかりにくいところがある。でも実際の人間の心の動きは、いつもそういった古い音楽のような情動失禁みたいな状態にあるわけではなくて、もっと何層にも重なり合った襞の多いもので、一色で塗り固めたようなものではない、曖昧ではないけどすっぱりと割り切れるものではないはずである。

その意味でベルクのこの曲は僕には自然に感じられる。調性や明暗や音色が移ろっていくけど、突然切り替わることはない。いつもグラデーションの中にある。集中力を持った演奏者による音を集中力を持って聴けばその機微が伝わるはずだと僕は思っている。そういう条件が整えば最後の6度9度の和音にカタルシスを感じることができると僕は思う。

シャハムは完璧なテクニックで決然と弾き進んでいく。余裕さえあるように聴こえる。改めてすごいバイオリンだなと思ってしまった。オーケストラにそういう決然としたところがもう少し欲しかった。曖昧なところがあると聴いている方はすぐ立ち位置を見失ってしまいそうになる。

ところで、シェーンベルクの、特に若い頃の曲はときどきワーグナーっぽいな、と感じるようなところがでてくるけど、ベルクのこの曲では、マーラーっぽいと思えるところがときどき出てくる。曲が脱力したところでそういう感じが多い。マーラーマニアの僕としてはちょっと嬉しい。まあどうでもいいことだけど。
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ヤルヴィ・ゲルネ「角笛」 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はゲルネでマーラーの「子供の不思議な角笛」だった。ゲルネは初来日の時に女房と藤沢で聴いて、いろんな意味で驚いたバリトン。みんなオペラばっかりやってリートをやる歌手が少なくなって寂しく思っていたので、すごく頼もしく感じた。そのうちあれよあれよと言う間にトップクラスのバリトンになって他人事ながら嬉しかった。

「角笛」は同名の童謡詩集からマーラーが選んだものを歌曲にしたもの。子供に見られる幼稚で残酷でわがままでグロテスクで視野の狭い愚かさを、マーラーが面白がって取り上げたかのような曲集になっていて、マーラーらしいと言うか、マーラーがその性質を自身に持っていて自己嫌悪を伴った共感が現れているんではないか、とも僕には思える。

ゲルネが歌うとそういうマーラーの皮相的なところはあまり目立たなくなるように聴こえた。それよりもオーケストラの長調と短調が気まぐれに入れ替わるときや、木管楽器の間でフレーズが受け渡されるときに音色が変化するのに従って、歌のニュアンスを微妙に変えていく。言葉以上の何かを音楽で伝えようとするマーラーの本来の意図がわかるような気がして、僕は気に入った。オーケストラがそこまで気を使って音を出してるか、というと残念感がちょっとあるような気がしたけど。

女房は僕の横で一緒に聴いていて、ゲルネが歌手としての盛りを過ぎたみたい、と言っていた。これまで聴いたゲルネはビブラートが少なく音程がはっきりわかる歌い方をしていたけど、今日のは確かに低い音で聞き取りにくいときがあった。高音では声の伸びを期待するような曲ではないのでよくわからなかったけど、女房は気になるところがあったようである。

50を過ぎたところだからバリトンならまだまだやれるはずである。ゲルネには頑張って欲しい。若い歌手でこういう知的なリート歌いが見当たらないのも残念である。僕から見たらみんなオペラをやって破れ鐘のような声を上げるせいで、脳みそと髄膜に隙間ができてしまって、知的な歌に困難が伴ってるんではないか、と思ってしまう。たまにはリートをやったほうが老後のためにもいいのではないだろうか。
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クラシック音楽館のアンスネス [クラシック]

今日のEテレのクラシック音楽館でモーツァルトのピアノ協奏曲21番をアンスネスのソロでやってた。このアンスネスはすごくよかった。ナマで聴きたかった。

よく制御されたタッチの音色がほんとに美しい。クレシェンドデクレシェンドも滑らかで毛羽立つことがない。昔、僕が子供の頃はこの曲をすごく甘い音色でやるのをよく聴いた。そういうのとは違って明晰で、なによりも気張らず偉そぶらない素直さが伝わってくる。人柄なのかもしれない。フィナーレでのオーケストラの木管楽器とのやったりとったりも全く自然で聴いていて気持ちいい。

アンコールではまさかモンポウをやるとは思わなかった。僕はモンポウが大好きで、もっと評価されていい作曲家だと思っている。モンポウは何気ない土着の歌に思いがけず普遍性が内在するような曲をたくさん書いている。このアンコールの曲のように、ほんとに何気ない短い曲ばかりで、しかもいかにもこてこてのスペイン風という感じなんだけど、どこか深いところにふと触れられるようなところがあって引き込まれてしまう。アリシア・デ・ラローチャが死んでモンポウ弾きが絶えてしまって寂しいと思っていた。アンスネスがみっちりやってくれると嬉しいんだけど。

やっぱりアンスネスはナマで聴きたいな。ずっと前からドビュッシーだったら必ず行こうと思ってたんだけど、モンポウやらないかな。それなら絶対聴きに行くのにな。
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読売日響定期「フラングのストラヴィンスキー」 [クラシック]

読響の第587回定期を聴きに行った。何目当てかと言うとヴァイオリンのヴィルデ・フラング
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いろんなところのオーケストラや放送局がネットで公開しているコンサート録音を聴いていて、若手なのにすごくはっきりした太い音で押しが強いように聴こえた。おそらくゴツイおっさんだろうと勝手な先入観を抱いていたんだけど、あとになってCDのジャケ写なんかで可愛いお姉さんだと知ってびっくりした。見た目と音が全然違うやん、下ぶくれだけど(関係ない)。

これは生を聴いてみたい、とずっと思っていたら、女房がチケットとるけど行くか?なんて言ったので二つ返事で決めた(ピアノとのコンサートもあってそっちのほうがキャラがわかりやすくてよかったんだけど、メインがブラームスのソナタだったので残念だけど諦めた。ブラームスは寝るし)。でもストラヴィンスキーなんだよなあ。ストラヴィンスキーのヴァイオリンコンチェルトって何度聴いても頭に残らないって言うか、ストラヴィンスキーらしいところはあるんだけどどうもぼやけてるって言うか、ちまちましとらんとしゃんとせいや、と言いたくなるような曲だと思っていた。ストラヴィンスキーにはときどき、いや結構そう言う曲があると僕には思える。

そのちまちま協奏曲を、こわもて(もちろん音が)フラングがどうやるのか、というのが楽しみだった....

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Eテレ「クラシック音楽館」シュトラウスとマーラー [クラシック]

今夜、Eテレの「クラシック音楽館」のヤルヴィN響を見た。前半はヨハン・シュトラウスのワルツを何曲かだった。シュトラウスは毎年明けにウィーンフィルが実況をやるのでさんざ聴いている。はっきり言ってどれも内容に乏しい音楽で、僕からするとなんでわざわざコンサートでやるのかわからない。

ヤルヴィN響のアンサンブルは完璧なんだけど、いつも正月にテレビの前で酒を飲みながら寝転がって聴いているウィーンフィルに比べるとすごく硬い。シュトラウスの音楽は徹底的に能天気で、耳たぶより後ろのことはさっぱり忘れた、というようなのに、なんだか難しいことをやっているぞ、みたいに聴こえる。せめて楽しそうならいいのにと思うんだけどそういうところもあまりない。音楽の空虚さが強調されているように聴こえてしまった。

一緒に聴いてた女房によると「ベートーヴェンがスカートはいてるみたい」という。音楽の演奏のことになるといつも辛辣な僕の女房だけど、言い得て妙だと思えてこれには僕も笑ってしまった。

後半はマーラーの4番。僕はこの曲をヤルヴィが言うような純粋な曲だとは思っていない。マーラーが二十歳代半ばで書いた第1番は自身の子供時代と決別する曲なのに、その十年以上も後に子供の純粋さを持つ曲を書くわけがない。僕はこの曲を、四十歳を間近にしたマーラーがあるとき見た長い夢を音楽にしたものなんではないか、と思っている。

誰でも自分の若い頃の、妙に鮮明な夢を見るものである。見ているときには懐かしさは感じないし、現在の歳をとった自分が何も知らない若い自分に乗り移っていることに不自然さは感じない。しかし既視感がうっすらとあって、ふとしたところに今の自分が投影できない齟齬というか違和感があったりする。そういう没入的な感覚と鳥瞰的な視点とが同時にこの曲にはあると思っている。

ヤルヴィN響はここでもなんだか硬いんだけど、シュトラウスに比べればそれほど気にならない。シュトラウスにはない音楽的な内容に救われていると言う感じもする。

驚いたのは4楽章で歌うソプラノが3楽章最後のトゥッティのフォルテシモのときに袖から歩いてきて、ヤルヴィのそばに立ったこと。これは盲点だった。最初から立ってるわけにもいかず、かといって3楽章が終わってから現れると拍手が起こったりしてシラけてしまう。アイデア賞ものの大正解。これって最近は他でもこうなのかな。

この曲のソプラノは難しい。マーラーの曲に出てくる声楽ソロは下手ではダメだけど、上手すぎて全てを歌い尽くすようなのはもっとダメで、余白というかスキがないと面白くない。特にこれと「大地の歌」、それに「角笛」と「亡き子」はそうで、さらにこの4番ではイタリアオペラみたいな豊満でエロいソプラノだとそれだけで曲全体がぶち壊しになってしまう。その意味でこのソプラノはよかった。ちょうどいい下手さがあった。それに楽譜を手に持たず、音のない間もずっと顔をあげたままなのもいいし、終わってからの若々しい笑顔もよかった。

歳を食うと、肩を露わにしたぼんきゅっぼんよりもこのほうがかえってエロを感じるものである。なんのこっちゃ。
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