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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その7 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番を聴いてきた。
  1. 第1楽章第1主題第1楽章全体
  2. 第2楽章
  3. 第3楽章
  4. 第4楽章
  5. 調性に関するまとめ
今回、ショスタコーヴィチの引用に関する蛇足を追加して、15番の話はおしまいにする....

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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その6 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番を、第1楽章第1主題第1楽章全体第2楽章第3楽章第4楽章と、譜例をあげながら順に聴いてきた。

今回は、これまでの話で僕が何を言いたかった、をまとめる。そして次回ショスタコーヴィチ の引用について蛇足を追加する....

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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その5 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番をの調性感を聴く話。第1楽章の第1主題そのあと第2楽章第3楽章と聴いてきた。今日は第4楽章

今回で音楽は一通り聴いたことになる。次回にこれで僕は何が言いたかったのか、をまとめることにする。....

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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その4 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲15番を調性感に注目して聴いている。これまで第1楽章の第1主題第1楽章の残り第2楽章と、譜例をたくさん上げながら聴いてきた。今日は第3楽章....

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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その3 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番の話の続き。前々回前回で第1楽章を一通り聴いた。演奏時間で7、8分のそれほど長くない楽章だけど、結構複雑な構造をしていることがわかる。

今日は第2楽章。第1楽章の第2主題で使われた12音的なフレーズがいっぱい出てくる....

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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 [音楽について]

MacPorts版64ビットコマンドラインLilyPondを導入して快適だったので、それを使ってひとつのネタを披露する。楽譜をいっぱい書く...

1  ショスタコーヴィチの交響曲第15番

ショスタコーヴィチの交響曲15番はショスタコーヴィチの最後の交響曲で、また「交響曲」というジャンルのほとんど最後になる曲である。15曲ある交響曲の中では僕の一番好きな曲で、そして彼の交響曲の中でいちばんの傑作で、古今東西の交響曲のなかでも上位に数えられる名曲だと僕は思っている。

この曲は、見かけ上は引用/パロディが満載で、また特に第1楽章は新しいメロディというかフレーズが次々に現れては通り過ぎていくように聴こえることもあったり、一方で重苦しく暗い調子で沈みまくるところもあったりして、掴みどころのない曲のように言われることがある。一般的には、自他の作品からの引用はショスタコーヴィチによる「しかけ」「からくり」と考えられることが多い。

僕にはこの曲が、非常に知性的かつ冷静で、しかも一音一音がすべて自然体でありながら決然としていて、ブレがないと聴こえる。それはショスタコーヴィチの生前の言動とは真逆で、迷いがない、と言っていい。

僕がこの曲をどう聴いたか、というのは前に書いたことがある。また、ここで何度か書いたように僕はショスタコーヴィチの引用を云々しても仕方がない、と思っているので、引用、パロディの話は無視して(最後に彼の引用に関して僕の思うところを書くつもり)、今回はもうすこし曲の構造についてまとめてみたい。特にショスターコヴィチの「調性感」について。

今回は最初に書いたように64bit版LilyPondで音符を描くのが快適だったので譜例をいっぱい描いて、僕が考えるショスタコーヴィチの「調性」に関する面白いところを「とことん」書きたいと思う。一般に言われていることや偉い人が言ったことと違うところがたくさんある。僕は音楽学者ではないので、客観性よりも自分の耳で聴いて感じたことを優先した結果である。

「それは違うだろ」と思った人はぜひコメントください。

トッコトン。

こう書くとちょっとかわいいかな。

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現代音楽に関するニュース [音楽について]

面白いニュースを読んだ。ドイツ鉄道が駅にたむろするホームレスなんかを寄り付かせないために「無調音楽」を鳴らすという計画があったが、それを取りやめたという。

一体どういう曲を流すつもりだったのか、すごく興味がある。その計画に反対するコンサートを開いたイニシアティヴ・ノイエ・ムジークという演奏家集団の、「そんなもんに使うなよ」と言いたい気持ちはもちろん理解できる。彼らはそこでどんな曲をやったんだろうか。

僕は平均的な人よりは無調などのいわゆる現代音楽に寛大なつもりである。しかしごく普通の人はやはり苦痛なんではないだろうか。げんに僕の周りには、マーラー、リヒアルト・シュトラウスでさえ聴くと頭が痛くなる、と言った人や、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に「ああ?なにこれ、うるさいうるさい」、武満徹のギター曲を「わけわからん」、などと僕に投げた人たちがいた。

ましてや、シェーンベルクの12音や、ベルクやリゲティやシュトックハウゼンやクセナキスやなんかは普通の人にとってはもう十分に攻撃的である。僕も、誰の作品だったか、12分の1半音ずつずらして調律した12台のピアノ作品のムービーを聴いていて、めまいと急激な吐き気を催したことがあった。人間の生理に直接、悪影響があるということを実感した。

現代音楽はあまりに高度化されすぎて、音楽的内容を理解したり評価したりということができるのが、訓練を積んだ専門家だけになってしまった。人間のすることはなんでもそうなってしまう傾向があるが、「音楽は人類の共通言語」「音楽は直接心に響く」みたいな幻想があって、音楽だけは一般の人とは無関係な限られたごく少数の人たちのためだけにあってはならない、というような暗黙の認識があるようにも思える。現代音楽はそういうナイーブな思想に対しても攻撃性を発揮する。そして現代音楽の中にはそういう「毒」を意図的に込めたものも当然存在する。芸術とはそういうものである。

僕は、ドイツ鉄道は計画を実行すべきだった、と思う。それは初期的には十分効果を上げるはずである。しかしホームレスたちの一部はそこに居るしかなく、そこに居ると音を聴いてしまう。そして何ヶ月か、あるいは何年かすればそういう音楽に耐性のあるホームレスたちがある割合で現れるはずである。彼らは現代音楽に抵抗がないだけでなく、そのうち音楽として理解し、評価できるようになる。彼らは反芻するうちに慣れ親しんで、知らずしらず現代音楽のボキャブラリを獲得するのである。

イニシアティヴ・ノイエ・ムジークの演奏家たちや現代音楽の作曲たちはあまり理想主義的な反応をしないほうがよかったのではないかと僕は思う。少なくとも現代音楽が音響として空気を震わせる機会は、今も昔も非常に限られている。

そしてイニシアティヴ・ノイエ・ムジークは、耐性を獲得したホームレスたちを新しい仲間として迎え入れたほうがよかったのではないか。少なくともそのほうが今よりも理解者を増やすことができるはずである。

これは皮肉でも冗談でもない。音楽はただ耳に優しく心地よいだけではない、と言うならそれを実証すべきであり、その真の意味を現代音楽の専門家もそうでない人と一緒に考えるべきだ、と僕は思う。そうしないで飯で釣った一過性のコンサートなんかをするほうに僕はむしろ違和感を覚える。
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変拍子の音楽 [音楽について]

もう何年か前のことになるんだけど、娘に面白いものを教えてもらった。「赤髪の白雪姫」というアニメ。今ではとっくに終わってしまってるけど、原作は昔懐かしいLaLaに連載している漫画らしい。LaLaってまだあったんだ。

そのアニメの主題歌を主人公役の声優が作曲して自ら歌っている。漫然と聴くとよくわからないけどこれがなかなか面白い。サビは4/4拍子なんだけど、移行部は5拍子で歌のある主部は拍子が複雑に交代している。娘の説によると、いわゆるプログレで育った世代を親にする子供が曲を作るようになって、子守唄がわりに聴いたプログレのせいで彼らに変拍子に対する抵抗がないからではないか、という。

プログレで育ったというとまさしく僕のことで、変拍子には思い入れがある。その話を書こう書こうと思いながら今頃になってしまった。このところ仕事で行き詰まってた問題に見通しが見えてちょっと楽になったのでまとまったものを書こう。久しぶりに渾身の記事である。

ここで「変拍子」というのは2、3、4拍子以外の素数拍子や、1小節ごとに拍子が変化する拍節リズムをいうことにする....

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ちょっとしたいちゃもん(音楽と「ことば」) [音楽について]

今日たまたま、森下唯氏という現役の若手ピアニストがブログに「佐村河内事件」のことを書いているのを読んだ。いまごろとりあげるのはちょっと旬を逸ししかけているかもしれないけど、その内容に文句を言いたいわけではない。

彼は冒頭で「...また純粋に音楽を聴くのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。...」と書いている。残念ながらその主張に関する具体的な説明はその文章には現れない。その後の文章は事件に関する感想と見解を述べていて、その内容はクラシックの職業音楽家らしいと僕は感じるし、ほぼ同意する。

しかし今さきに引用した「純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然」「そんなことを目指す必要さえない」とは僕には思えなくてまったく同意できないし、そこを目指さなければ音楽の存在価値はない、と僕は思っている。そのことをちょっと書いておく...

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