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夢を見た [分類してもしょうがないもの]

仙台で一人暮らしをするようになって、夢をよく見るようになった(正確に言えばよく覚えているようになった)。でも面白い夢はあまりなくて、たいてい普段の生活が変形した夢か、あとは何かから逃げる夢や、あるいはトイレを探しまわる夢ばかりでつまらない。

今朝早くトイレに起きたときに見た夢はこれまでにないパターンだったので、トイレから戻ってきて慌ててiMacを立ち上げてメモをした。数秒単位で忘れていくような気がして慌てた。

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「お里が知れる」 [分類してもしょうがないもの]

僕のずっと前に死んだ祖母がよく言っていた。「お里が知れる」とは、逐語訳は「出身地がバレる」と言うことだが、ようするに普段から行儀の悪いことをしていると、特別な場面で気取って取り澄ましていても立ち居振る舞いにそれが現れてしまう、と言う意味。一事が万事なのだからいつもちゃんとしろ、ということ。なんでそんなことを思い出したか、というと...

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今朝の夢 [分類してもしょうがないもの]

明け方4時過ぎ頃喉が渇いて目が覚めた。こういうときたいてい夢を見ているんだけど、このときのはちょっと違うような気がしてそのままiMacを立ち上げて見た夢をメモした。
そのあと寝直してそれから普通に起きて出張に出かけた。外出から帰ってきてそのメモを見てみるとすでにほとんど忘れていた。不思議だ。メモしたことはちゃんと覚えているのに何を書いたかほとんど覚えていない。なんでだろ。そのメモをもうちょっとわかりやすく清書する。

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また夢を見た [分類してもしょうがないもの]

歳をとってからほとんど毎日のように夢を見るようになったが、脈絡がなくて後から考えるとよくわからない夢が多くて、たまにストーリのようなものがあることもあるが、気持ちよくもなく悪くもない中立的なものばかりだった。ところが今朝のは、はっきりと悪夢だった。
朝6時頃起きて忘れないうちにiMacを立ち上げてメモをとった。半日経って帰ってきてから読み返すともうすでに忘れている。夢はすぐに書き留めるというのが重要。所詮夢なので間違いなく書き留めたからといってどうということはないんだけど。

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牛乳パックを少ない水できれいに洗う方法 [分類してもしょうがないもの]

飲み終わった牛乳パックは洗って開いて干すと、ゴミにならずに再生できるらしい。僕は、そうして溜まるといつも生協の再生ボックスに放りこみに行っている。

牛乳パックを洗うとき、なんとなく2回にわけて洗っているけど、もっと何回もわけた方がいいのか、ほんとうはどういうのがいいのか、とふと思った。計算してみる。

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記事千個 [分類してもしょうがないもの]

これで僕のブログの記事がちょうど1000個になった。

十進ではなんとなくめでたい。ほぼ半分が日々の献立なので内容的には薄いけど。

1000よりもやっぱり1024番目のほうがめでたい気がするけど、前の第五百回の時に考えた通り、実はどの回もめでたいと言えるので浮かれてもしょうがないのかもしれない。

いったい、キリがいいとはどういうことなのか。ようするに現れる確率の少なさという意味ではどれも同じだというのが五百回目の時の結論だった。

特別な整数と言うみかたをするとまず素数が思い浮かぶ。この1000回は素数ではないけど、こないだ過ぎた997回とか、まもなくやってくる1009回は素数である。これらは特別な数であると言える。でも千付近ではそれほどめずらしくなくて、一万回を超えないと素数は案外ありふれた数であるといえる。

千に近い数字でめずらしいといえば、例えば998。1000以下で日本のWikipediaにエントリがない数のひとつ。素数より遥かにめずらしい。

まもなく友愛数の組(1,184、1,210)がおとずれる。しかし、婚約数の組の一方 (1,050、1,925)の方が早い。

なんか「博士の愛した数式」みたいになってきた。


五百回記念 [分類してもしょうがないもの]

この記事で500回め。十進法を使っているせいで切りがいいような気がするが、二進法だと「111110100」だし、三進法だと「200112」だし、四進法だと「13310」だし、六進法だと「2152」だし、ちっとも切りが良くない。こらこら、五進法を飛ばすなよ。

でも五百進法だと「10」で切りがええ。それをいうなら499回めは四百九十九進法で「10」で切りがええな。発見。

ブログ記事数の定理:「すべての回は必ず切りのいい回である」

まあ、いいとして、去年の9月24日から始めたので275日で500個、一日1.8個ちょっと。かなり多い。でも献立ネタが214個もあるのでそれ以外がほぼ一日ひとつ。それでも十分多いな。どーでもええ話ばっかりやけど、ブログなんてそういうもんやろ。

このブログの目的はそもそも
  1. 離れて暮らす家族に、亭主父親の生活の様子を伝える
  2. 特に、一人ではなおざりになりがちな食生活の記録を証拠と共に残す
  3. 「なおざり」なのか「おざなり」なのか書いてて分からなくなる
  4. とりあえずそれは目的ではないことに気がつく
  5. でもそのせいで何を書いていたのか忘れそうになる
  6. 単なる外面的な状況だけではなく、内的な活動を表現することに重点を置く
と考えて始めた。もともとあからさまには言っていなかったが三つの目的を持って始めたつもりだったけど、なぜか六つに数が増えている。間違っているものが紛れ込んでいるような気もする。
そうや、もうひとつあった。
  1. ボケ防止
ああ、忘れようとしても思い出せない...(バカボンのパパの名言)

HD DVDがBlu-rayに負ける [分類してもしょうがないもの]

このブログは、離れて住む家族への僕からの一方的な「絆」なので(綾波みたい、なんてじじいが書く台詞かよ)、あまり時事的な話題は避けているがちょっと気になるので書いておく。先日東芝がHD DVDから撤退するという発表があった。

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 [分類してもしょうがないもの]




「おばあちゃん、日本の人たちには魂が無いって聞いたんだけど、本当?」
「ええ、本当よ。彼らだけではなくて私たち白人種以外には魂が無いの」
「みんな人形みたいな物なの?」
「いいえ、違いますよ。それぞれ自分の考えを持って暮らしていますよ。でも死んだらそれでおしまいなの。そこで何もなくなるの。だから彼らには天国も地獄も必要無いの」
「その人たちはそれで平気なの?」
「私たちだったら辛いわねえ。だから辛くないように魂の無い人間として神様がお作りになったの。だからあの人たちは私たちのまねは上手だけれど、自分たちでは何も作り出すことはできないでしょう?」
「じゃあ何のために生きているの?」
「あなたは道ばたの雑草が何のために生きているのか知ってる?生き物にはそれぞれ神様がお決めになった役割があるの。彼らにも役割はあるわ、私たちとは違うかも知れないけど。でもそのことを彼らに言っちゃダメよ」
「どうして?」
「人種差別はいけないって学校でも習ったでしょう。生き物はすべて神様の前で平等なの。私たちが彼らと違うと彼らが知ったらどう思う?私たちが気をつけなければいけないのよ、わかる?」



ラッカーの日本旅行記を読んで思い出した。
20年近く前、出張先でアメリカ人技術者が話してくれたことをもとに脚色。


CDとLPと音楽 [分類してもしょうがないもの]

CDについて書いていて思うことがあった。
CDのおかげでそれまでのLPがいかに脆弱で面倒で不安定でそれに場所塞ぎであるかということに僕らは気がついた。LPの方が音がいいと言う人がいる。さらにもっと、デジタルの音は全然ダメという人もいる。

LPとCDの音の違いは確かにある。でも違うこととどちらがいいか、ということは別次元である。CDは「音が固い」「冷たい」、LPは「暖かい」「人間的」などと言われる。立派な権威ある論文雑誌で「CDでは音程がわからない」なんて発表してる輩もいる。でもそれは趣味半分思い込み半分に僕には思える。

そもそも録音された音楽が本当の音楽と言えるのか、という視点があっていいのではないかと思う。少なくともクラシックとジャズに関して、録音は演奏と言う行為のほんの上澄みを掬っているにすぎない。音楽のうち、現場に居合わせた人間の間に通底するイドの共感とでも言うようなどろどろと形の無い、表す言葉も無い、けど大きな位置を占める底の澱のような部分は奇麗さっぱり抜け落ちてしまう。
録音された音楽は言うなれば音楽の抜け殻、よく言って魚拓みたいなものである。

魚に塗る墨の塗り方の違いはあるだろう。でもそれは所詮魚拓であって魚そのものではないはずである。音楽を聴こうとしたとき、CDとLPなんて枝葉末節大同小異、いい歳をした大人が難しそうな顔をして「こちらの方が音楽としての暖かみが」なんて、考えるだけで赤面してしまう。

抜け殻と飛び去った蝉を、あるいは魚拓と食べてしまった魚を混同する人はいないのに、なぜかCDやLPから出る音を音楽だと考えられていて誰も疑わないのがそもそもの間違い勘違いではないのか?

もちろん一部のクラシック(グレン・グールドがそうだった、カラヤンも意味は違うがそれに近い)と一部のロック(ブライアン・イーノはそうだ)とほとんどのいわゆるJ-Popは録音された音の方を音楽だと自ら見なす。昔もたとえばLPの特性、裏表があって片面15〜30分ぐらいという特性に合わせて音楽をつくることはされていた。最初はビートルズの「アビーロード」から70年代後半のデビッド・ボウイなどが典型的で、アルバムは前半と後半に分かれ、それぞれ別の意図、あるいは別の側面を表すような作りがなされていた。ようするに入れ物に中身を合わせることだ。

僕はいつかCDのサンプリング周波数が44.1kHzであることを前提にした音楽が作られるのではないかと思っていたがまだなさそうである。それでも製作の過程でまったく空気の振動を伴わず、音の波形あるいはデジタルデータとしてだけ存在して実際に音として解放されるのは聞き手の手元のスピーカにおいてだけ、というのも既に存在している。カラオケ伴奏のデータなんてきっとほとんどそうだろう。キーボードからMIDIデータとして入力された後はいろいろな加工を経て通信カラオケメーカのデータベースに蓄えられ、あるときカラオケボックスのMIDI音源に送られてスピーカを初めて鳴らす。

ある面では音楽のめんどくさい手続き、「コンサート」あるいは「ライブ」と呼ばれる多くの人が時間と場所を合わせて行動を共にする、そこには「呼び屋」「興行」などの全く音楽と無関係な、しかし避けられない夾雑物まで一緒に含んでしまう芋蔓式の膨大なあれやこれやをすっとばして純粋な音の作り手と音の受け手を直接繋ぐ手段が「録音」であると言う主張も理解できるし、僕自身もすごく共感する。でもその媒体がCDではダメでLPならいい、とか言う議論にはならない。全く次元の違う問題である。むしろ本当に自分の音を伝えたいと思えばMP3でぎりぎり圧縮しても問題なく聴こえるように僕なら作る。もう既に実際にいるんじゃないか、MP3に一旦圧縮したデータを展開してCDに入れてるやつは。

それでもエリック・ドルフィが最後のアルバムの最後の曲が終わってから言っているように「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again. 」うーん、ドルフィが言うと重みがあるはずなのにサラっとカッコいいなあ。音楽とはドルフィが言うようにもともとそういうものである。でもそのドルフィの音楽は、もう録音を通してしか聴くことができないのも事実である。

CDのサンプリング周波数は20kHz以上が聴こえる人はほとんどいないという人間の聴覚特性から決定された。僕自身10kHzぐらいから上は「シー」と言っているようにしか聴こえないし16kHzから上は何も感じない。それを無視して96kHzまで入れたSACDが意味をなすとは僕には思えない。逆に、5弦ベースの最低弦のHの音は30Hz付近で鳴らしてもベースアンプのスピーカが目に見えて動いてるのがわかるけど音としてはほこほこ言うだけで何の音が鳴ってるのかよくわからないのに、上に和音楽器の音が乗ったとたんに何の音が鳴ってるのかわかる。普通のスピーカが再生しない20Hz以下の音でも、上に和音が乗れば有る無しははっきりわかる。そういう実体験の存在を無視しておきながらスペックとしてだけ96kHzを云々するのっておかしくない?自分で虚心に聴いてみたの、本当に聴きたい音は何なのと訊きたくなる。

CDだLPだ、アナログだデジタルだと言う以前に音楽を発する、それを受け取って聴く、という原始的な視点に立った議論がもっとあってもいいんじゃないか、それはコンテンツ保護だ儲かってるのは着メロだなんていう今時のズレた音楽業界にとってもいいことじゃないかと僕は思うがどうでしょうか?

しかし、じじいは口を開くと文句ばかりだなあ、まったく。


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