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「モーツァルト」読了 [読書]

吉田秀和著、講談社学術文庫。

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横浜のうちに転がっていたのを見つけて他に読む本がないので読んだ。

中身は雑誌などに書いた評論のモーツァルトに関連するものだけを集めたもの。すごく古くて昭和22年から44年まで(西暦で何年や?)の大小11点。でも吉田秀和の評論はわかりやすい。

吉田秀和は僕が子供の頃、NHK-FMで番組を持っていてずっとモーツァルトの音楽について語ってその音楽を流していた。毎回モーツァルトばかりだったけどある日「今日はちょっといつもと違って...」などと言うのでさすがにモーツァルトは飽きたかと思っていると「...1777年ごろのモーツァルトのことを...」

高校の頃、リヒァルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」のレコードをたまたま買って、それがニーチェの同名の本を音楽にしたものだというのでニーチェの方を文庫で買った。なんか山で暮らしていた歳くったオヤジがふもとにおりてまた山に帰ったというのはわかったけど、他はほとんど理解できなくて目は文字を追っているのに頭に入ってこないという状態だった。音楽とは別物、あたりまえだけど、ということを知った。

その直後に夏休みの宿題(だか何か)で読んだ本の中に小林秀雄の「モオツァルト」があった。これも推薦されていた本の中で音楽の話が書いてあるらしい、と思って読んでみることにしただけで自分から読みたいと思ったわけではなかった。

最近読んだ本はすぐ忘れるのに、高校の頃読んだ本の記憶は結構残っていて、「モオツァルト」はゲエテがどうしたとかいうようなぐちゃぐちゃとよくわからない話がはじめにあって、その後縦書きにされたモーツァルトの交響曲40番のフィナーレの第1主題の楽譜がぽん、とあって何やら大阪を歩いていたら突然それが聴こえてきて感動云々、とあって「嘘つけぇ」と思ったのは覚えている。

さらにその後はベエトオヴェンやワグネル(誰やねん、それ)、そしてスタンダアル(それともモオパッサンだっけ?)やら、そしてさらに直前にひどい目にあったニイチェの名前がぞろぞろ出てきてなんのことだか全然わからなくなった。そのせいでニーチェと小林秀雄はペアで思い出すようになった。

どうやらこの人は音楽の感動を詩の言葉に置き換えて表現しようとしているらしい、とそのときは思ったが、音楽雑誌の記事は別にして初めて読んだ音楽評論だったので「音楽評論というのはわけわからん。モーツァルトの音楽だけでなく他の音楽や文学まで知らなければならないのか。小説ならそれだけを読んで楽しめるのに」などと尻切れとんぼの感想文を書いて国語の先生にダメ出しされた。

どこかにジャズを下等な音楽のように書いてあったような気もするし、きっと小林秀雄は音楽とは教養主義的な接し方しかできなかったんだろうと思う。それは偏見かもしれないけど、今の僕はやりたいことの割には残り時間がそれほど多くないので改めてはもう読まないことにしている。

吉田秀和は小林秀雄のような書き方はしない。おそらく音楽は音楽、詩は詩であって置き換えがきくとは頭から思っていないんだろう、ごく日常的な自分の中にある言葉を使って文章を書いている。そして突然聴こえてきた音楽に突然感動するようなことはせず、かならず音楽の具体的な部分を取り上げて「ここがこうだからこういうことだ」というようにディテールだけについて話を進める。普段よく使っている素直な言葉で具体的に簡潔に語られれば、そして音楽のその部分を知っていればよく理解できる。その表現がすごく的を射ている、という感じがすることも多い。

引用すると長くなりすぎるのでやめるけど、交響曲39番の第1楽章の主題とシュトラウスの「青きドナウ」が同じ音を使いながら全然違ったものになっていると指摘するあたりなんかは典型的で、読んでいておうおう、そやそや、と思ってしまう。

それに昔、小林秀雄を読んだときには感じなかった、ただ音楽を聴くその喜びのようなものも行間から伝わってくる。これがもっと吉田秀和を読みたいと思う原動力になる。

長生きしてほしい。最近のを読みたいな。


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