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武満徹と彼のギター曲 [音楽について]

今日午後、楽譜を整理していると武満徹のギター譜を久しぶりに見てつい、弾いて午後をまるまるつぶしてしまった。実は僕は彼の「森の中で」と言うギターの独奏曲が好きでたまらない。

武満徹に関する昔話

武満徹の音楽を初めて聴いたのは、たしか岩城宏之が振ったNHK交響楽団の「弦楽のためのレクイエム」だった。いつ頃だったかよく覚えていないけど、大阪のフェスティバルホールまで弟と二人で聴きに行った。2歳年下の弟はひょっとするとそのときはまだ小学生だったかもしれない。そのときのメインプログラムはストラヴィンスキーの「春の祭典」だった。当時のN響はほとんどドサまわりをしなかったので、ひょっとするとオーケストラは違っていたかもしれない。このへん記憶があやふや。

それまで大学の学生オケや地方の市民オーケストラのコンサートには行ったけど、プロのオーケストラの演奏会はそれがはじめてだった。この1回分でレコードが何枚買える、などと考えてどうしても元を取ろうと思いながら「春の祭典」の予習をいっぱいして聴きに行った。生の岩城宏之の「春の祭典」はいたいけな少年にとっては衝撃的だった。

その前座のように演奏されたのが武満の「レクイエム」だった。その頃まだ「春の祭典」が正真正銘の現代音楽だった少年には「????」の連続で、その痩せた音色だけが印象に残った。演奏時間から考えてそれ以外にもやったと思われるが全然記憶にない。なにせ40年前の話。

その後、武満徹の名前も覚えたころ、テレビで「ノーヴェンバー・ステップス」をやっているのを見た。たぶん高校生だったと思う(ひょっとすると黛敏郎の「題名のない音楽会」の中だったかもしれない)。琵琶がオーケストラの楽器に較べて「汚い」音色を持っていて、なんでこんなことをするんだろう、とぼんやりと思った。

大学に入ってクラシックギター部なんて言うクラブに入った。そこで1年上の先輩が「フォリオス」という武満の曲を弾いていた。その頃僕はブローウェルやソーゲやデュアルテやバークレーとかのギターの現代曲を面白がっていろいろ弾いていたので、いかにも現代音楽という響きがしていたその大判の楽譜をコピーさせてもらった。ところがいざ見てみると、とてつもなくテクニカルで難しい曲だった。あっさりとくじけてしまった。

会社に入って、結婚した頃から武満徹の他の曲に惹かれるようになってきた。いかにも現代音楽風な曲ではなくなんとなく調性感があって、ふわっとした和音と楽器特有の音色が一体になったような不思議な感触がなんとなく気に入った。武満は歳を経るに従ってなんだかどんどんわかりやすくなっているような気がした。女房も突然「石川セリポップソングス」なんていうCDを買ったりした。そして突然訃報を聞いた。

僕は武満徹の曲に好きではないものもあるけど、若い頃の「弦楽のためのレクイエム」や「地平線のドーリア」、ピアノのための「遮られない休息」、「ピアノ・ディスタンス」は今でも好きだし、晩年の「リタニ」「系図」「そして、それが風であることを知った」なんかには静かに佇んでいるような優しさがあって、それはそれで好き。僕は西洋音楽には「内容」を要求してしまうんだけど、武満徹の音楽に対しては心地よく空気のように漂っていて、ただ美しいと感じてしまって、そしてなにかそれ以上のことをして欲しいとはあまり思わない。

武満徹のギター曲

今から10年ほど前、たまたま横浜ヤマハの楽譜売り場でSCHOTT社が武満徹の楽譜を出しているのを知って、そこでギターのための曲があることを知った。そしてその中からためしに一曲買ってみたのが「森の中で」だった。ギターという楽器の特性を武満徹がよく知っているということはわかったけど、ギターが弾ける人の曲ではないこともすぐにわかった。演奏に必要なテクニックのレベルが一定していないし、何カ所かは小指の長さが15cm必要だったり隣り合う和音で指が交錯して動作が不自然だったりする。そういったせいで最初はピンとこなかったんだけど、弾き込むうちにどんどん美しさがわかるようになってきた。

それまで知っている曲はどんなものも音は前に向かって出ていって、弾き手からは遠ざかっていくように鳴る。そして当然音楽とはそういうものだ、と思っていた。ところがこの「森の中で」は違っていた。まるで弾いた音が自分から離れずに空中に浮遊して、まわりにまとわりついているような気がした。これまでとは全然違う全く別のレパートリを発見した、という感慨を持った。

この不思議さはなかなかうまく言えない。実際に楽器を手にして自ら音にしてはじめてわかる肉体的な感触というのがある種の音楽にはある。例えばショパンのワルツをピアノで弾いて指が喜ぶ、というのがある。ギターでも指が喜ぶ感じはバリオスの曲などで味わうことができる。しかし武満の曲の場合はまたちょっと違う次元にあるような気がする。

そのあと、SCHOTT社から出てる楽譜を買いあさった。武満徹はギター曲を案外たくさん書いていることもそのとき知った。独奏曲を僕が買っただけでも6冊ある。
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僕の趣味から言えばポピュラーソングの編曲ものは弾くのが難しいだけでそれほど面白くないと思うんだけど、その他の例えば「すべては薄明のなかで」は「森の中で」と同じような音が逃げていかずに自分に向かってくるような不思議な感触がある。

この感触は武満徹の曲をしかも自分で弾くときだけにしか味わえない。これは非常に残念というか、もしかしたら武満の音楽はみんなこういう感触を持っているのに僕は自分で弾いてはじめて気がついただけ、ということかもしれない。

ところで「森の中で」は組曲でそれぞれ5分ほどの3曲の独立した曲を集めたもの。それぞれジョン・ウィリアムス、荘村清志、ジュリアン・ブリームという3人のギタリストに献呈されているが、ジョン・ウィリアムスはこの曲を自分で初演しなかった。このエピソードを知ってジョン・ウィリアムスは音楽の値打ちのわからんやつだという烙印を、僕は心の中で押した。

「森の中で」の3曲は一見独立しているように見えるけど、共通する和声が現れる。3曲目の最後はそれを種明かしするようにその和音を鳴らして終わる。GとC#という増4度の間隔を持った二つの和音が繰り返される。それぞれの和音は減7度と減10度などのテンションを持ったものでそれがギターの解放弦とハーモニクスで鳴らされる。この最後の数小節だけでもギター奏者にとっては目からウ○コ(ウロコだ鱗!)と言っていい。

もしこれを読んでいてクラシックギターを弾く人で武満徹を知らない人がいたらぜひ「森の中で」の楽譜を手に入れて弾いてみて欲しい。指が難しい箇所もあるけど、「ここは外せない」と言うキモの部分以外は適当にはしょったり、低音をオクターブ上げたりしてもその不思議さは十分味わえる。

これを読んで実際に弾いてみる人が何人いるかは、確率の積なので0.03人ぐらいだろうけど。
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