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ストラヴィンスキー「3大バレエ」のこと [音楽について]

ゲルギエフがニューヨークフィルを振ったストラヴィンスキー作品の連続演奏会が(もちろんニューヨークでだけど)あったが、その一部をインターネットラジオのストリーミングで流していたらしい(ほんとに太っ腹やな)。女房がファイルに落としていてそのコピーをもらって聴いた。高圧縮で音は悪いし、どうも最近のニューヨークフィルは音が毛羽立っているように聴こえてあまり好きではなかったが、けっこう良かった。特に「結婚」はすばらしかった。集中力を切らすとなにやってるのかわからない(ロシア語だし)曲なんだけど改めてこの曲の良さを思い知らされるような充実した演奏だった。

ストラヴィンスキーと言えば「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」が一番有名な曲として上がる。でもこの3曲はストラヴィンスキーが30歳前の若書きで、ほんとに最初にイッパツ当てたという珍しいパターン。ストラヴィンスキーは作曲を始めたのが20歳頃で、それからさらに60年以上も作曲を続けたので逆に言えばその後のほとんどの作品はなんなのか、ということになってしまう。

しかしストラヴィンスキーは不思議な人で、残りの作品は「ストラヴィンスキー作曲」と注釈がなければ聞き流してしまうような曲も多い。「プルチネルラ」「結婚(追記1)」「3つの小品(弦楽四重奏)」のように気の効いた、あるいはそれなりにインパクトのある曲もあるけど、「アゴン」のようにどこか萎縮したような冴えない曲や、「ダンス・コンチェルタンテ」のようにぼやけてるとしか言いようのない曲もある。

3大バレエの中では特に「春の祭典」の評価が高い。初演の騒ぎやバレエとしての過激さから、歴史的な事件として記憶もされているが、それよりも音楽的な内容の斬新さは単なるエポックにとどまらない普遍性を持っている。前にも書いたブーレーズの分析のように今からでも新しいことが汲み出せる泉のような音楽である。

「火の鳥」は、こういうのこんなののようにそれまでの「音楽が優れていてはならない」というバレエ音楽の伝統(そんなこと言ったら怒られるかもしれんが)に則った曲で、僕は退屈だと思うんだけどこの曲を好きな人は多い。イエスはリック・ウェイクマンがメンバだった頃、「火の鳥」のフィナーレの最後の和音にメロトロンの音を繋いでオープニングに使っていた。

「春の祭典」はたしかにすごい。しかし天才のひらめきのようなものが見られるのは「ペトルーシュカ」のほうだと僕は思う。3拍子を7拍に割ったり8拍に割ったりしても混乱しない、どころかそれが気持ちよくなるぐらいの独特のリズムに始まって、手回しオルガンの音にしか聴こえないクラリネットの音色、扉が開いて人形が投げ出されたのが目に見えるような「ペトルーシュカの部屋」の開始の部分、ワルツに闖入する鈍重な歌や4部冒頭の市場の雑踏の的確な描写と、上げ出したらきりがない。どうやってこんな音を作ることができたのか全く理解できない。天才の仕業としか思えない。

短いフレーズで的確な情景描写をするのは「火の鳥」にもあるが、それは本当に単なる状況描写に終わっていて、「ペトルーシュカ」のような、例えば投げ出されたことによる痛みや屈辱は伝わってこない。「ペトルーシュカ」の描写はペトルーシュカの表情や心の動きまで見えるように感じる。でもペトルーシュカは人形であって表情や心はない。その矛盾は「どうせおとぎ話だから」という言い訳の中に拡散してしまわないで、音楽に導かれて存在の悲しみといったようなものに焦点を結んでいく。

逆に「火の鳥」では恋をして喜んだり悲しんだりしているはずのイワン王子や王女たちが、表情を描いた面をつけているだけの硬直した人形のように音楽からは聴こえてくる。シナリオの差もあるけど、「火の鳥」にくらべて「ペトルーシュカ」では音楽の表現力が全く別の次元に到達している。

そしてペトルーシュカで発明されたリズム細胞、5音階の歌、エネルギーに満ちた不協和音は「春の祭典」に受け継がれて発展する(萌芽は「火の鳥」にも見られるが)。「春の祭典」は「ペトルーシュカ」を発射台にして悲しみ喜びといった心の動きとは無関係な彼岸にまで到達してしまった。情緒を置き去りにしてただ、音色と和音とリズムの物理学のような音楽になった。しかしそれは物理学がそうであるのと同じように、人間の個人的な営みの結果であることを百年近く経った今でも主張し続けている。

天才ストラヴィンスキーは僕の好きな作曲家。数少ない天才のひらめきがある作曲家のもうひとりだと僕が思っているプロコフィエフについては、またの機会に。

追記1:
「結婚(Les Noces)」を初めて聴いたとき、カール・オルフの「カトゥリ・カルミナ」にそっくりだと思った。どちらもピアノと打楽器と声という不思議な編成の、民謡調のメロディと強調されたリズムが印象に残る曲で、なんだ、ストラヴィンスキーもパクリをやるのか、と勘違いしていた。あとになって「結婚」が1923年で、「カトゥリ・カルミナ」はなんとそれから20年もあとの作品だと知った。パクったのはオルフの方じゃん。「カトゥリ・カルミナ」はなんとなく昔はよかったみたいな後ろ向きの曲だけど、「結婚」は現代的でしかもちゃんと前を向いている。そのせいでよけい「結婚」がずっとあとの曲だと誤解してしまっていた。「糞耳」だったな。
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