SSブログ

芸術劇場「ダムラウ&メストレ ジョイント・コンサート」 [音楽について]

先週録画されていた先週の芸術劇場をさっき見た。

正直に言うと、ディアナ・ダムラウのソプラノは上手いんだけど奥行きに乏しくてあまり僕の趣味じゃないし、グザヴィエ・ドゥ・メストレのハープも砂糖菓子のように甘っちょろくて好きじゃない。

しかし、歌曲にピアノや、ましてオーケストラの伴奏は音がバカでかすぎるということがよくわかった。ダムラウがオペラのコロラトゥラらしく自らの胴体を共鳴させて倍音の少ない巨大な音量で歌おうとしそうになる。そうするとしょぼい音量のハープの伴奏が聴こえなくなってしまうので音量を絞る。そうすることで発音された子音の了解度があがる。実はそれが本来の「歌」に近い姿で、もともと歌というのは音程とリズムのついた言葉だった。

オーケストラの大音量に負けないように声楽は進化してきた。そのおかげで歌手は音量を制御するということを忘れ、その歌には実は言葉が伴っていたんだけどもうなにを言ってるのかまったくわからない、オーケストラの音に埋もれないように大きなビブラートをかけるせいで音程もよくわからない、歌ってる本人も脳味噌が緩んでしまって思考力理解力がみんな低下して結果的に「ブブゼラ」みたいな歌手ばかりになる、という弊害の方が大きくなった。と、他の人はどうか知らないけど僕はそう思っている。

「歌」というのは、音を発することのできる動物ならある程度制御できる音程やリズムという音楽的な要素と、「言葉」という人間固有の表現が結びついた、生物の最近の数億年の中では際立って珍しい特異な現象で、おそらく1万年近い歴史はある。それを百年ぐらいの成果でぶちこわすのは考えものだと思う。

シューベルトの歌曲をギター伴奏で歌う人もいる。サーカスの曲芸のような、あるいは金管楽器のようなオペラ歌手ばかりを喜んでないで、そういうアプローチを聴く側がもっと評価してもいいんじゃないか。
どうだろうか?
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

献立6/22献立6/23 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。