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音楽と言語 [音楽について]

最近たまたま言語に関する新書(その感想追記)と、音楽に関する新書を立て続けに読んだ。特に後者には音楽を「語る」ことの重要性が語られていた。

僕は比喩的な意味ではなく文字通りまさしく「音楽は言語である」と思っている。なぜそう思うのか、その話を書くつもりになったけどそのためにはまず、僕が「言語」をどう考えているかを説明しないといけない。そこから始める。書いてるうちにちょっと力が入るかもしれない。

2  言語

2.1  言語の基本的な機能

僕が考えている言語とはチョムスキーの言うような文法が先にありきのようなものではなく、単に
  • 命名
  • 類別
を行う機能のことであるというのは以前にも書いた。つまり言語とは人それぞれが自分の脳の中に構築したシンボルのデータベースであって、そのシンボル間に「似ている」「似ていない」や「近い」「遠い」といったあるシンボルを別のシンボルと区別するための単純な関係だけを属性として保持している。そして言語はそれ以外の機能はいっさい持っていない。

類別というと集合に同値関係を定義することでできる部分集合族を連想するけど(僕は実はそのイメージでいる)、それほど厳密なものではない。むしろ位相が定義された集合の近傍のようなイメージのほうが近いかもしれない。データベース内にいろいろな位相が存在しているが、その定義は要素を並べることでしかできない、という感じである。またデータベース内のシンボル全体の集合を「語彙」とよぶことにする。

2.2  言語機能の初期進化

なぜ、言語をそれほど低機能なものだと考えているかというと、僕自身の言語処理機能がその程度のものである、という観察結果から。それに加えて、言語の進化を考えたとき、例えば「文法」などというような高次の機能が発生する道筋が見えないということである。

もともと言語は動物が自分のまわりの環境のなかで自分が注目しているいくつかのもの、つまり前書いた「コンテクスト」を把握する能力から進化した、と思っている。目の前にある対象を記憶したり他の物体から区別するのを視覚映像的に行う替わりに、それに対応する「シンボル」を使って処理するようになったのが最初だったんだろうと思う。

僕が思うにおそらく、まず人間の祖先は自分よりも素早い肉食動物から身を守るために視覚や嗅覚や聴覚の機能を高めた。特に視覚と聴覚は素早い反応をするために重要であるが、視覚の解像度があがってくるとその画像情報の処理に時間を要するようになってしまう。そのスピードアップのために発達したんだろうと考えている。例えば「おばあさん細胞」のようなハード的な処理ができるようになったとすれば、「シンボル」が結びつくのにそれほど大きな飛躍は必要ない。つまり、おばあさん細胞の発火そのものがシンボルとなる。当然「おばあさん細胞」よりも「捕食者細胞」や「食い物細胞」が先にできていたはずである。

そして形や色や大きさといった対象の持つ属性は、抽象的な形や色ではなく、他の似たような形を持ったものとの類似性で表現される。少なくとも進化の初期段階では抽象的な概念に対応するシンボルはなかった、と思っている。なぜなら文法などと同じで、なにから進化したか説明ができないからである。

従って今われわれが持っている抽象概念も非常に曖昧で個人ごとに解釈が違っていたりするのは当然と言える。

2.3  類別の基礎

また「類別」は、「連想」のメカニズムを基礎にしている。「大きくて速く動くもの」を「敵」だとみなすということは生き残りには重要である。鳥などはそれを遺伝子に書いた。こうすれば素早い反応ができるが、固定的で修正はきかず、いろいろなコンテクストに対応できるわけではない。自分の現在のコンテクストにあるシンボル群が敵かどうかを判定するためのよりどころが「類別」である。あるシンボルを敵と判断するためにまず「自分より大きい」や「自分より速い」という類別を利用する。これが素早くできれば遺伝子に書くより柔軟な対応が可能になる。そのためには効率的な(無意識的な)「連想」が必要となるが、これが類別の基礎になっていると考えている。人間の「連想」の能力は非常に高くて大量のシンボルからそれに対応する別のシンボルを見つけるのはとても速い。自分の妄想力の高さから僕は自信を持って言うことができる。

2.4  「動詞」の発生

また少なくとも進化の初期段階では「名詞」しかデータベースにはなかったと考えている。「名詞」はデータベースがもともと内蔵していた機能だけど、「動詞」「形容詞」「副詞」に対応する機能は持っていない。それらは自分が習熟した動作に対してシンボルを対応させたものであろう。例えば「歩く」は、練習することで体のいろいろな筋肉を連動させるひとまとまりの動作が小脳に蓄積され、それに対して(おそらく大脳の運動野を経由して)「歩く」という言葉が結びついたものだと思っている。だから「動詞」は常に主体が自分であり、他人の動作や習熟していない動作に対応する動詞はもともとなかったと考えている。そういう動詞は「似た動き」が認識できるようになってから発達したものだろう。

同様に「形容詞」や「副詞」も感覚器官と、それからの信号を処理する大脳の部分の反応に対してシンボルを対応させたものだろう。つまり、「名詞」はもともとデータベースが持っている機能だけど、それ以外は脳の他の部分の援用を必要とする、ということになる。

ちょっと長くなりそうなので残りは明日に続けることにする。
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