「予想どおりに不合理」読了 [読書]
ダン・アリエリー著、熊谷淳子訳、ハヤカワ文庫NF。
面白かった。
膝を打ったり、「そうだったのか!」と手のひらで自分のおでこを叩いたり、ということはあまりない。どっちかというと「そうそう、こういうこと、あるある」みたいなエピソードが実験として大量に紹介されている。
一番最初に米エコノミスト誌の購読料の話が出てくる。執筆当時の購読料は年間
となっていたという。これをそのまま著者が実験として、MITの大学院生百人に選ばせると
だったという。あきらかに印刷版のみはメリットがないと思えるからであるが、著者は
という選択肢で同じように実験したところ
になったという。誰も選ばなかった真ん中の選択肢を取り除いただけなのに、ウェブ版を選ぶ学生が16人から68人になったという。これは著者によると最初の「印刷版のみ」の選択肢は「おとり」であり、「おとり」のあるなしで判断に影響を受けてしまって合理的な判断ができていない、という。笑ってしまうぐらい面白い実験である。
残念ながらこの本が有名になってしまったせいなのか、今のエコノミスト誌の購読料は「おとり」の値付けはなくなってしまっている。この本の話が本当ならエコノミスト誌としてはあえてそのままにしておく、という方がもっと大きな「おとり」を手にすることができたと思えるんだけど。
この本の面白さは行動経済学の特徴的な結論にあるではなくて、こういったふつうに見かけることに著者が人間の行動の不合理さを見つけて、それを白日の下に晒すような実験(たいていMITかハーバードの学生が対象になっている)で確認する、ということがたくさん書いてあってそれらひとつひとつが「そうそう、そうだよなあ」と思えてしまう、ということにつきる。この本にはこういったエピソード実験がそれこそ大量にでてきてそれぞれが面白い。
いや、読者の立場としては笑っていればいいけど、こういう実験を実行するのは物理の実験とは違って人間相手なのですごく大変だろうと思うし、統計的な処理ができなければせっかくのデータも無意味になってしまう。本の記述には現れない苦労がいっぱいあったと思えるんだけど、この本を読んでいると著者が実験を嬉々としてやっている姿が目に浮かぶ。著者は実験が楽しくてしょうがなくて、結果をまとめて統計的に有為な結論が導けたときは「ほうら、いった通りだろ!」なんて学生たちに叫んでるように読んでいると思えてくる。
ところで極端に言ってしまえば、この本の内容はすでに人は知っているけど意識していないこと、とくにその中で著者の言う「不合理」な反応をすることに対して名前を付けただけ、とも言える。
しかし名前を付けると言うのは非常に重要で、それまでとは違った見方が可能になる。例えば僕の専門の話に引っ張って恐縮だけど、「ブラッグ反射」を「フォトニック結晶」と言い換えるようなもんだろう。これもただ言い換えただけではなんの面白いこともないんだけど、半導体のバンド理論の概念が光学に流用できることになった。バンド理論は成熟した理論で「ブラッグ反射」と見ていただけでは思いつかないいろいろな現象が説明できることになった。
僕は、著者の専門の「行動経済学」というのは経済学の光学における「フォトニック結晶理論」みたいなもんだろう、と思った。
この本で指摘されるまでもなく自分の判断が合理的ではない、ということは少なくとも無意識的にはわかっている。経済学としてはどうなのかよくわからないけど、少なくとも僕の人生において重要な判断を下すときは必ずそれは合理的な判断ではなかった。判断が必要なときというはたいてい自分や家族の未来に影響のあることに対してである。未来というのは誰も予見できないのでそもそも合理的な判断は難しい。そのとき「こっちだ」というのはたいていあとからみれば不合理な判断だった。この本を読んでいたらそこで合理的な判断ができたか、というと決してそんなことはないだろう。その意味で本の腰巻きにあるような「行動経済学を学べば日々の生活を改善でき、仕事に応用できる」というような個人に対する直接的なご利益はないと思う、「物理学を学べば日々の生活を改善でき、仕事に応用できる」とは言えない程度においては。
マクロに見れば「予測可能な不合理」だろうけど、僕はその「不合理な判断」が個々の「意思」というもんだろうと僕は思う。それは、女房に言わせれば僕の「意思」には別の名前があってそれは「あてずっぽう」という、となるんだろうけど。
企業の研究開発は、当ればその企業の屋台骨を支える大きな収益の柱に成長するが、一般的には多くの投資が必要なわりには成功率が非常に低い。合理的な経営判断に従えば研究開発投資はやめるべきだ、となるだろう。多くの研究開発は不合理な判断に支えられていると言っていい、と僕は思う、というかそうあるべきであると思う。僕のいる会社でもずっと昔はそういう不合理な判断に基づいて継続された研究開発テーマがあった。そのあと合理的な経営判断によって打ち切られるテーマが続出した時代があった。今思えばあのテーマをやっておけばよかったのになあ、と思えることがときどきある。もちろん後の祭りだけど。ここで何が言いたいかは、まあ、わかってもらえると思う。
ところで最初のエコノミスト誌の実験は、あきらかに値付けのほうがそもそも不合理である。その不合理を見つけた人がかえって不合理な判断をする、ということにも思える。例えば「印刷版」が「ウェブ版と印刷版の両方」と同じ値段なのは、ウェブ版と共用することで手続きが簡便になるため、などというような合理的な説明があった場合はどうなるんだろう。また逆に「ウェブ版と印刷版の両方」が「印刷版だけ」よりも安かった場合はどうなんだろう。つまり合理的な判断をうながす材料が揃っていた場合や、逆に判断材料が矛盾していたり、不合理な判断を要求するような前提だった場合というのも考えられるのではないか。
行動経済学的に意味があるかどうか僕には良く分からないけど、この本を読んだせいでそう言った興味も起こる。野次馬的な興味かもしれないけど。
面白かった。
膝を打ったり、「そうだったのか!」と手のひらで自分のおでこを叩いたり、ということはあまりない。どっちかというと「そうそう、こういうこと、あるある」みたいなエピソードが実験として大量に紹介されている。
一番最初に米エコノミスト誌の購読料の話が出てくる。執筆当時の購読料は年間
ウェブ版のみ | $59 |
印刷版のみ | $125 |
ウェブ版と印刷版の両方 | $125 |
となっていたという。これをそのまま著者が実験として、MITの大学院生百人に選ばせると
ウェブ版のみ | 16人 |
印刷版のみ | 0人 |
ウェブ版と印刷版の両方 | 84人 |
だったという。あきらかに印刷版のみはメリットがないと思えるからであるが、著者は
ウェブ版のみ | $59 |
ウェブ版と印刷版の両方 | $125 |
という選択肢で同じように実験したところ
ウェブ版のみ | 68人 |
ウェブ版と印刷版の両方 | 32人 |
になったという。誰も選ばなかった真ん中の選択肢を取り除いただけなのに、ウェブ版を選ぶ学生が16人から68人になったという。これは著者によると最初の「印刷版のみ」の選択肢は「おとり」であり、「おとり」のあるなしで判断に影響を受けてしまって合理的な判断ができていない、という。笑ってしまうぐらい面白い実験である。
残念ながらこの本が有名になってしまったせいなのか、今のエコノミスト誌の購読料は「おとり」の値付けはなくなってしまっている。この本の話が本当ならエコノミスト誌としてはあえてそのままにしておく、という方がもっと大きな「おとり」を手にすることができたと思えるんだけど。
この本の面白さは行動経済学の特徴的な結論にあるではなくて、こういったふつうに見かけることに著者が人間の行動の不合理さを見つけて、それを白日の下に晒すような実験(たいていMITかハーバードの学生が対象になっている)で確認する、ということがたくさん書いてあってそれらひとつひとつが「そうそう、そうだよなあ」と思えてしまう、ということにつきる。この本にはこういったエピソード実験がそれこそ大量にでてきてそれぞれが面白い。
いや、読者の立場としては笑っていればいいけど、こういう実験を実行するのは物理の実験とは違って人間相手なのですごく大変だろうと思うし、統計的な処理ができなければせっかくのデータも無意味になってしまう。本の記述には現れない苦労がいっぱいあったと思えるんだけど、この本を読んでいると著者が実験を嬉々としてやっている姿が目に浮かぶ。著者は実験が楽しくてしょうがなくて、結果をまとめて統計的に有為な結論が導けたときは「ほうら、いった通りだろ!」なんて学生たちに叫んでるように読んでいると思えてくる。
ところで極端に言ってしまえば、この本の内容はすでに人は知っているけど意識していないこと、とくにその中で著者の言う「不合理」な反応をすることに対して名前を付けただけ、とも言える。
しかし名前を付けると言うのは非常に重要で、それまでとは違った見方が可能になる。例えば僕の専門の話に引っ張って恐縮だけど、「ブラッグ反射」を「フォトニック結晶」と言い換えるようなもんだろう。これもただ言い換えただけではなんの面白いこともないんだけど、半導体のバンド理論の概念が光学に流用できることになった。バンド理論は成熟した理論で「ブラッグ反射」と見ていただけでは思いつかないいろいろな現象が説明できることになった。
僕は、著者の専門の「行動経済学」というのは経済学の光学における「フォトニック結晶理論」みたいなもんだろう、と思った。
この本で指摘されるまでもなく自分の判断が合理的ではない、ということは少なくとも無意識的にはわかっている。経済学としてはどうなのかよくわからないけど、少なくとも僕の人生において重要な判断を下すときは必ずそれは合理的な判断ではなかった。判断が必要なときというはたいてい自分や家族の未来に影響のあることに対してである。未来というのは誰も予見できないのでそもそも合理的な判断は難しい。そのとき「こっちだ」というのはたいていあとからみれば不合理な判断だった。この本を読んでいたらそこで合理的な判断ができたか、というと決してそんなことはないだろう。その意味で本の腰巻きにあるような「行動経済学を学べば日々の生活を改善でき、仕事に応用できる」というような個人に対する直接的なご利益はないと思う、「物理学を学べば日々の生活を改善でき、仕事に応用できる」とは言えない程度においては。
マクロに見れば「予測可能な不合理」だろうけど、僕はその「不合理な判断」が個々の「意思」というもんだろうと僕は思う。それは、女房に言わせれば僕の「意思」には別の名前があってそれは「あてずっぽう」という、となるんだろうけど。
企業の研究開発は、当ればその企業の屋台骨を支える大きな収益の柱に成長するが、一般的には多くの投資が必要なわりには成功率が非常に低い。合理的な経営判断に従えば研究開発投資はやめるべきだ、となるだろう。多くの研究開発は不合理な判断に支えられていると言っていい、と僕は思う、というかそうあるべきであると思う。僕のいる会社でもずっと昔はそういう不合理な判断に基づいて継続された研究開発テーマがあった。そのあと合理的な経営判断によって打ち切られるテーマが続出した時代があった。今思えばあのテーマをやっておけばよかったのになあ、と思えることがときどきある。もちろん後の祭りだけど。ここで何が言いたいかは、まあ、わかってもらえると思う。
ところで最初のエコノミスト誌の実験は、あきらかに値付けのほうがそもそも不合理である。その不合理を見つけた人がかえって不合理な判断をする、ということにも思える。例えば「印刷版」が「ウェブ版と印刷版の両方」と同じ値段なのは、ウェブ版と共用することで手続きが簡便になるため、などというような合理的な説明があった場合はどうなるんだろう。また逆に「ウェブ版と印刷版の両方」が「印刷版だけ」よりも安かった場合はどうなんだろう。つまり合理的な判断をうながす材料が揃っていた場合や、逆に判断材料が矛盾していたり、不合理な判断を要求するような前提だった場合というのも考えられるのではないか。
行動経済学的に意味があるかどうか僕には良く分からないけど、この本を読んだせいでそう言った興味も起こる。野次馬的な興味かもしれないけど。
2013-09-21 23:15
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