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世界はすべてアナログである [日常のあれやこれや]

今でもデジタル嫌いの人がいる。僕のまわりにもそういう人がまだいる。僕が昔、CD用の対物レンズをやっていたころ、CD嫌いの人に直接間接問わずたくさん出会った。彼らの主張の多くは簡単にいうとデジタルによる音は良くない(正確には「気に入らない」)だった。ときどき反論することもあったけど、そのとき僕はうまく説明することができなかった。

今では所詮好き嫌いの情緒的なもので、僕に直接の影響がない限りはうるさくいうつもりはまったくない。でも、ときどき出会う「デジタルとアナログの違い」といった説明には、今でも違和感を覚えることが多い。特に実際的な場面での「アナログ」と「デジタル」は次元の違うもので対比するものではない、と僕は思っている....

「アナログ」と「デジタル」のもともとの意味

言葉の定義で言えば「アナログ」とは数学の実数に対応できる量のことで、「デジタル」はものの個数のような整数に対応できる量のことだと言っていい。もっとはっきりと「アナログ量」「デジタル量」と言えば連続な量と、とびとびの量という意味になる。

でも量のアナログとデジタルの違いをいちいち言うことはまずない。距離や時間間隔や物の重さのような量と、個数や人数のような量とは明らかに違っていて言うまでもない、ということだろう。

ごく普通に「アナログ」「デジタル」というときは、例えば針が回転する時計や電圧テスタのような「表示」、レコードやCDによる録音のような「記録」、FMラジオや地上波テレビのような「伝送」などに関係する場合である。このときの「アナログ」「デジタル」はその手段の違いを言っているように僕には思える。

「アナログ」とは?

「表示記録伝送」における「アナログ」とはつまるところ、

「ある物理量の大小を別の物理量の大小に変換する」

ことである。少なくとも僕はそう捉えている。針が回転するアナログ時計は、基準時刻からの時間経過という物理量を、針の回転する角度という別の物理量に変換するものである。たまたま人間は経過時間よりも角度の方が直感的にわかりやすい(おそらく人間の脳の構造がそうなっている)ので、その変換によって便利になる、ということである。

FMラジオも音の大きさ(正確には振動の振幅の瞬時値)を電波の周波数偏移の大きさに変換して伝えるものである。大きな音には大きな周波数偏移が対応している。音はすぐ広がってしまうし吸収反射するものも多いので遠くまで伝わらないけど、電波は音よりは直進性も良くて遠くまで伝わる。

レコードも同じである。音の大小を回転する円盤の上の溝の深さに変換してある。音は発生した後はただ広がっていくだけですぐ消えてしまうけど、塩ビの円盤に刻まれた溝は音よりは長持ちする。本来演奏した瞬間になくなってしまう音楽を、レコードによって時間的に固定して何度も再生できるようにできたので、20世紀中頃の巨大産業にまで発展した。しかしそれはまた別の話。

「音」は物理量なのか、という疑問がありえるけど、ラジオやレコードの音は実際にはマイクの位置での空気の圧力変化の、ダイアフラム面というある面積内での平均値という物理量を捉えているに過ぎない。画像の場合も全く同じようにレンズによって集められた光がセンサの画素に到達した強度の分布という物理量である。

ちなみに「変換」は、物理量の大小を「検出」する部分と、それに従って別の物理量を「制御」する部分に分けて考えることができる。例えばアナログ時計では、テンプや振り子の周期を「検出」して、周期の回数に比例した角度に針を「制御」するというわけである。

では「デジタル」とは?

一方、「表示記録伝送」における「デジタル」は

物理量の大小を「数」に置き換える

ことが本質的な点である。デジタル時計の表示では経過時間の大小と、表示の角度大きさ重さ明るさなどの時計そのものから得られる物理量とは一切無関係である。CDのピット(凹凸)を見ても大きな音のところはピットがでかい、なんていうことはまったくない。

それはなぜかというと、デジタル時計やCDでは、数に置き換えられたものが表示(時計では文字として)されたり記録(CDではEFMで変調されたピット列として)されたりしてるからである。

宇宙人が地球にやってきたとして、彼が人間の使う数字を知らなかったなら、デジタル時計のどんな物理的特性を測定しても時間経過との関係を見出すことはできないはずである(彼が辛抱強かったら、点灯するLEDの位置が周期的だということに気がついて時間経過との関係を発見するかも知れないが、彼には地球でぼーっとデジタル時計を眺める以外にすることがもっとあるだろう)。

そういえば昔、レーザーディスクというのがあった。見た目はでかいCDで、その中身もCDとそっくりなピットの列である。しかしCDと違って「アナログ記録」だった。大げさに言えば暗いところはピットが長くて明るいところは短いはずである(僕は見たことはないけど)。

レーザーザディスクは見た目はCDとよく似てるけど、アナログであって、画像の明るさがピットの長さ(ピットの有る無しのデューティ比は音によって変調されているので、正確にはピット列の周波数偏移)に変換されていた。

「アナログ」と「デジタル」の違い

「アナログ」は「連続的」で「デジタル」は「離散的」という特徴がある、と説明されることが多い。しかそそれは最初に述べた言葉の意味においてそうなだけで、さっき書いた一般的に使われる「表示」「記録」「伝送」の場面では間違っていると僕は考えている。どう間違ってるかを以下に書いてみる。

アナログは「連続」か?

いろいろな物理量そのものはすべて連続である。しかし物理量の検出にはかならずノイズを伴う。S/N比が有限ならシャノン・ハートレーの法則から、区別できるレベルの数は有限個しかない。物理量は連続でもその検出は離散的にしかできない。

時間分解能に関しても検出には0以上の有限のエネルギーを必要とするので限界がある(検出時間0ではエネルギーのやり取りはない)。検出に要する時間はその帯域を制限する。要するに時間方向にも離散的にしか検出できない。

究極的にはプランク時間プランク長の限界があってS/N比無限大、帯域無限大は原理的にも存在しない。

つまり、物理量は連続でも、その大小を別の物理量に変換した時点で実質的に不連続である。変換後の物理量もそれが物理量であることには変わりないのでそれ自身は連続だけど、物理量の間の「変換」には本質的に連続性はありえない。

デジタルは「離散的」か?

一方のデジタルでは物理量を「数」で表すのが本質的であって、その数が固定ビット幅の2進整数に限られるわけではない。たまたま最初に一般化したデジタル記録であるCDが16ビット符号付き整数を使っただけで、それしかないわけではない。

実際に例えばDTMソフト(音楽作製編集ソフト、DAW)なんかでは内部的には音を32ビット浮動小数点数で保持しているものが多い(編集作業が音質に影響するのを抑えるのが目的である)、というか今では16ビットや24ビット整数を使ってるソフトを見つける方が難しい。単精度(32ビット)浮動小数点数による表現では、単純なダイナミックレンジで言えば1500dBを超える。

プランク長から現在の宇宙の大きさや、プランク時間から現在の宇宙の年齢までのダイナミックレンジは単精度浮動小数点で表現できるし、プランク長プランク時間を単位にしたとしても32バイト(=256ビット)長整数で宇宙の大きさは表現できてしまう。数は人間がこしらえた理想的な(構造が単純な)ものなので、ざっくり「アナログよりもデジタルの方がずっと連続である」と言っても間違いだとは言えない。

デジタルはサンプリングを伴うので時間方向にも離散化される、という説明を見かける。しかしサンプリング定理から帯域制限のあるアナログ変換と等価なデジタル変換を実現することは可能で、そしてさっき書いたように無限の帯域を持つアナログ変換はあり得ないので、本質的な差はない。

時計を例にしたとき

例えば連続と離散の例として「デジタル時計では1秒の次はとんで2秒になるが、アナログ時計では途中の角度がある」のような説明を聞くことがあるけど、それはデジタル時計では表示を秒までに限ったからそうなっただけである。「たのしい幼稚園」の付録についてるデジタル時計だって、プリキュアが教えてくれるのは何時何分までだけど、表示しようと思えばおそらく30$\mu$秒単位(32,768Hzクロックだとして)ぐらいでできるはずである。

逆にアナログ時計では針の角度そのものは連続だけど、振り子の1周期以下の針の刻みには時間経過としての意味はない。人間の読める帯域幅に限れば(サンプリング定理のもとで)、アナログ時計が連続でデジタル時計が離散的だという比較は、典型的なミスリードを伴う「比喩」であって、本質的ではない。

「変換」に関して

アナログデジタルにかかわらず線形な変換は存在せず、かならずノイズとは別の「誤差」が含まれる。大きな音に対してマイクがワレるのはその例である。いわゆる「サチる」という現象であって、変換のメカニズムに適応範囲がある現れである。また、サチる以前の小さな領域にも非線形な効果は必ずある。さらにほとんどの物理量には上限がある(無限大は存在しない)。

従って「変換」には「すこしでも何かすればどこか変わる(線形からのずれ方が変化する)」というような不安定さが常につきまとう。例えば高級オーディオの世界で「ケーブルを替えれば」「電源を替えれば」「電柱を立てれば」音が変わる云々、というのはごく当たり前の現象である(ただしそれは当然「音の良し悪し」とは別の次元の話である)。

世界は全てアナログである

無次元量も含めて物理量はすべて「アナログ量」である。量子力学的には離散化される量もあるけど、それも場の量子論的には過渡状態は速過ぎるので定常準定常しか観測できないからに過ぎない、と考えられる。どちらにしても普通の生活で離散化された状態を見ることはまずない。

全ての物理量は宇宙が始まった時(あるいはそのちょっとだけ後)からあった。その意味でアナログは神様の作ったものであると言える。一方「数」は人間がこしらえたものである。

にもかかわらず、人間も自分がこしらえた数を直接感じることはできない。せいぜい数字で表して読めるものとしてかろうじて理解することができる。しかしCDに刻まれた音から変換された数を数字の羅列として読んで「ふんふん、いい曲だね」なんて言う人はいない(楽譜を見て「ふんふん、いい曲だね」というシーンは映画なんかで見かけることはあるけど)。人間は物理量、しかもある特定の物理量しか感じることはできない。

その意味で人間にとって「世界はすべてアナログである」ということができる。

人間は数を直接感じることはできないので、デジタルであっても「変換」の要素と同じ「検出」と「制御」を必ず伴うことになる。人間が感じることができるということを前提にすれば、デジタルもアナログと全く同じ限界が存在する。

もう一度、アナログとデジタルの違い

さっきも書いたように物理量は神様の領域であって、つまりはアナログとは神様の手のひらの上で遊んでいるようなものである。そのせいでノイズや非線形性や、また変換に伴うエネルギー収支やそのやりとりには人間の制御の及ばない限界がある。

一方数は、色々な物理量をモデルにして人間のこしらえたもので、ようするに神様の真似をして自分に便利な「のようなもの」をでっち上げたに過ぎない。物理量というものは、過去も未来も、またすごく小さかったり大きかったりする領域でも、自分たちの見える範囲での振る舞いとおそらく同じだろう、と人間が勝手に考えて数をこしらえた。

しかしそれが正しいかどうか、つまり物理量を常に数で表せるかどうかはわかっていない。例えば実数のもつ「スケール不変性」は便利で解析学という道具を作り上げることができたけど、物理量が同じ「スケール不変性」を持っているか、というとどうやら怪しいという人もいる(僕もそう思う)。

しかし数は人間のこしらえたものだけあって、人間にとって便利なように作ることができた。物理量を一旦数に変換すれば、好きなようにできる。神様は人間がこしらえたものに対して人間が何をしようと気にはしない。勝手にすればいいと考えているようである。

いわゆる「デジタルの利便性」は「数は人間がこしらえたもの」だったからこそ実現した。「表示」「記録」「伝送」に限らず、例えば「圧縮」や「誤り訂正」や「暗号化」など、このことに対して例を挙げるとキリがない。

つまり「デジタル」とは、物理量を人間の側に引き寄せるために余計なものを「アナログ」に対して継ぎ足したものである、ということができる。

結論

これは僕の違和感の表明でしかないので、結論はない。そういえば、昔僕がよく聞いた「アナログの方が温かみが」「デジタルは無機的だから」などと言う人が最近は減ったような気がする。若い人はデジタルを経ていない、純粋にアナログな音や映像やその他をほとんど知らないので気にもしないのだろう。そっちのほうが僕には気が楽である。

どっとはらい(結論がないときの終わりの言葉)。
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