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「砂漠の船」読了 [読書]

せっかくゆっくり読んでたのに今夜の動かない仙石線の中で読み終わってしまった。
久しぶりの篠田節子。双葉社文庫。

篠田節子も実は友人「T」から教えられて読み始めた。

彼から「ハルモニア」を紹介されて読んで面白かったので、その後文庫で出てるうちの半分くらいは読んでる。

「砂漠の船」も篠田節子らしい、流麗とはいえないけど簡素で無駄のない文体が読みやすく、設計されたディテールを積み重ねて大振りの物語を組み立てて行くので、ついつい読み進んでしまうことになる。

主人公の幹郎は普通のサラリーマンだが転勤しない替わりに昇進もない制度を利用することで家族(妻と娘の3人暮らし)から離れずに暮らすことを選択した。村から出稼ぎに出て何ヶ月も帰ってこない自分の両親を反面教師にして、自分は家族を大事にしようと考えた。ところが幹郎は会社のリストラにあってじわじわと子会社からさらに子会社へと配置転換を余儀なくされる。その間に高校生の娘がアニメの2次創作で著作権違反に問われ、妻は団地のコミュニティの中で不倫を犯す。

半分くらいまで読んでこれは救いのない話になるのではないか、と思いながら読んだ。結末は救いとも絶望とも違う、まあ言ってみれば現実的なもので主人公が自殺して結末を迎えるような話とは違った真実味がある。

僕も幹郎とほとんど同世代で、娘がいてマックを使って漫画を描いているのでそのあたりではどきりとした。幹郎と娘の茜との関係と、僕と娘との関係はどれだけ違うのか。僕も幹郎と同じように娘に無意味な説教をしているのではないか、と振り返ってしまう。

僕は幹郎とは違う選択をした。その結果、一年前から一人で仙台で暮らすことになった。僕が子供の頃過ごした神戸の周辺部は幹郎の村とは違って大きなベッドタウンで村八分はありえない。高校までそこで過ごし、大学、大学院の6年間を京都で過ごし、そのあと就職して東京周辺に来て20年近く横浜に住んだ。それを思うと僕は自分が「根無し草」だという思いがつのる。単に住居を転々とするだけではない、故郷を持たない者となってしまったと言う意識。幹郎は能動的に故郷を捨てて家族を「根」としようとした。僕も故郷を捨てたわけではないのに結果的に家族を「根」とするしかない。哀れにも幹郎のほうは最後にはその家族に捨てられることになるが、彼のやり方と僕と、さてどう違うのか、どちらが正しいのか。そして僕のほうの結末はどうなるのか。

ところで、これを読んで思い至ったのはどうも日本中の人たちがみんな「根無し草」になっていってるのではないか、ということ。これではつげ義春の描く「私たちはまるで幽霊ではありませんか」。

おそらく僕と同世代のじじいたちは僕よりももっと波瀾万丈の人生を送ってきているに違いない。「根無し草」でないじじいたちはどのような生活をしているのだろう。


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