SSブログ

マーラーの歌曲のこと(N響アワーを聴いて) [音楽について]

今夜のNHK教育テレビのN響アワーはマーラーの「さすらう若人の歌」とベルクのバイオリン協奏曲だった。マーラーの方はバリトンのゲルハーヘル、ベルクはペーター・ツィンマーマンで本当に旬の演奏家の二人でなかなか良かった。

ゲルハーヘルは歌い込まずに一見朴訥とした調子だけど、歌の背後にある若い頃のマーラーのグロ趣味と自意識過剰がよくわかる演奏だった。

それに、「現代曲」が名前とは逆に古くさくなってしまって、シェーンベルクウェーベルンベルクなんかはその道連れにされて一般的な評価が下がっているような気がするが、ベルクのこの曲はええ曲やねえ。ツィンマーマンの、曲が調性と無調の間を行き来してるのに全体としては素直に歌っているように聴こえるところが実にええがな。

ところで、マーラーの歌曲はいい歌い手が巧く歌ってもつまらないことが多い。むしろ完璧な演奏ではマーラーの歌曲の本当の面白さが伝わらないのではないかと思ったりする。どっちかというと欠陥をどこかに持った隙の多い演奏家の方がマーラーらしくなることもあってそれが発見だったりする。

たとえばここにブーレーズとフォン・オッターの「亡き子をしのぶ歌」のCDがある。オッターは子供を失った父親の嘆きをたっぷりとした歌で聴かせる。ブーレーズの伴奏も完璧なバックアップをする。でも、なんかつまらないのよね。
(ここから先はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」を聴きながら読んでください)

マーラーの「亡き子」は父親の嘆きが主題ではない。「言葉の世界」と「言葉の無い世界」との境目を垣間見ることがこの歌曲の本当の価値だと僕は思う。

子供を失った父親は繰り言のように何度も何度も同じ嘆きを繰り返す。なぜあの子たちは死んだんだ。ああ、あの時、ああしていれば、こうしていれば。何度も繰り返して自分の内部へと自分を折り畳んで行く。

一方死んだ子供たちは父親の手の届かない世界にいる。でも父親の世界との違いは、永遠に春だけの世界であることと、言葉を持たないことだけ。父親のすぐそばに来ることができるのに言葉が無いので父親に語りかけることができない。父親の廻りを漂って頬を撫でるのに父親は気付きもしない。

どちらかと言えば平板なリュッケルトの歌詞が表すのは父親の世界だ。平板なのは当たり前で子供を失った悲しみを饒舌体の流麗な言葉で語ろうとは誰も思わないだろう。

そして死んだ子供たちはオーケストラだ。変幻自在で、でも言葉はない。言葉は無いけど自由で言葉の世界よりもずっと広がりがあって、父親の世界を外から眺めることも、そばまで行って触れることもできる。

同じメロディをうわごとのように繰り返す歌に対してオーケストラは出てくるたびに違って、歌に寄り添ったり離れたり全然違う所をさまよってはまたすぐ歌のすぐそばにやってきたりする。第1曲のたった8小節の間奏では、子供たちは夏の嵐の夜のことを思い出す。ほら、私たちはあの頃小さかったから得体の知れない恐ろしいものが出てくるんではないかと心配で寝られなかった。おとうさんに守ってほしくてそばに行ったのを覚えている?

でも、父親は言葉のある世界に住んでいるので、子供たちがすぐそばにいることに気がつかない。言葉のある世界に住んでいるので、言葉を使って頑なにただ嘆き続ける。あの時、ああしていれば、こうしていれば。子供たちが風のように自由に父親の廻りを巡っているのに言葉に囚われているせいで気がつかない。背中を丸めてああ、あの時、ああしていれば、こうしていれば。

ーーーー

こういった解釈が一般的なのかどうかは良く知らないけど、僕には「亡き子をしのぶ歌」はこういう曲だと思える。だからオーケストラが単なる伴奏であってはならないし、歌がすべてを歌い尽くしてはいけない。

僕にとっては、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」はヨーロッパの、機械が動作するような合理主義とは違う、どこか東洋的な彼岸を、生きている人間に感じさせてくれる重要な曲になっている。

残念ながらそういう演奏に出会うことは少ないけれど。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。