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パロディの音楽(ショスタコーヴィチ8番など) [音楽について]

五月連休に横浜の家族ものとに帰っていたけど、今週は女房からのヘルプがあって一週間おいてまた帰っていた。女房が仕事に使っているPowrMac G4 QuickSilverのひとつのボリュームがマウントされなくなった。fsckを起動すると何もできずにプロンプトが帰ってくる。

古いマシンだけどHDDはS.M.A.R.T.対応のものに載せ変えて2台パラレルATAのHDDを積んでいる。smartmontoolsここに詳しく解説してくれいている)をインストールしてあって細かいログやセルフテストを見てみてもHDDそのものには問題は見つからなかった。QuickSilver本体側の問題かなあ、もう6年になるからなあ、と思いながらフォーマットし直した。とりあえずこの状態で使ってみて、さらに問題が出るなら本体を買い替えた方がいいかも知れない、ということで仙台に帰ってきた。

帰りの新幹線の中でゲルギエフのショスタコーヴィチの交響曲第8番を聴いていた。

連休中に女房とラ・フォル・ジュルネに出かけたとき、ついでにお茶の水の中古CD屋に久しぶりに二人で寄った。そこで、ゲルギエフが振ったショスタコーヴィチの8番を千円ちょっとで買った。これまで4、5&9、7を出るたびに買ってから4〜9がセットになって安く売り出されてしまったので8番は買いそびれていた。それを聴きながら帰ってきた。

8番は難しい。劇的で真剣な表情が全体を支配する。でも、至る所に、あれ、聴いたことあるな、というような部分がちらばっているのに気がつく。特に第1楽章は、全体が彼自身の5番の交響曲の第1楽章の構造と全く同じ。出だしの楔形の宣言的フレーズ、それに続くppの繊細な主題、和音のリズムに乗ったpiu mossoの第2主題、展開部後半の行進曲風のトランペット、などなど拾い出したらきりがない。完全にセルフパロディであると言える。

その上、数小節分くらいのマーラーの7番第1楽章や、やっぱりマーラーの第5番第3楽章の、別に特徴的でもなんでもない部分とそっくりなところが現れる。他にも第3楽章には自分の第4番の、極端に無機的な呼応が再現されたり(弦楽合奏が2拍、そのあと管楽器が2拍のフレーズが延々と続く)、フィナーレでの第1楽章の回帰の仕方がまた自分の5番の交響曲とそっくりだったりする(と、書いたけど5番じゃなかった。どれだっけ?)。なにそれ?

第1楽章は自分の成功した曲のパターンをやって2匹目の泥鰌をねらったのか?でもそれなら大向こう受けした第4楽章にすればいい。それに第1楽章が優れているのはその大まかな構造ではなく、がっちりとした古典的形式感を支える、聴いていてほとんど気がつかないシンコペーションのリズム
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がさらに下部構造を作っていることだったはず。8番第1楽章の全体構造は5番とそっくりだけど、そういった堅牢性はなく、ディテールは5番にくらべてかなり緩い(つじつま合わせのように拍子が変わったりするし)。まるで皮相的に外見だけを真似たように見える。そんな、まるで表情だけ難しい顔をしてるだけの借り物のような曲に何故したのか?

第3楽章中間部の長いトランペットのテーマもすごくパロディック。ひょっとしたら僕が知らないだけで何か原典があるのかも知れない。パロディックでないのはその後のパッサカリアになってる第4楽章だけ。ショスタコーヴィチがその当時、研究していたり好きだったりした曲が自分でも知らずに潜り込んでしまったのか?

でも、第2楽章中間部の落ち着きの無いテーマを詳細に見ると調性と無調の微妙なバランスの上にメロディラインと伴奏和音が寄木細工のように組み合わされているのがわかる。しかも単純に3拍子で区切られた小節に民族音楽風のフレージング割りから生まれる複雑なシンコペーションが埋まっている。また、第4楽章はパッサカリアのテーマが半音階の多い対旋律を纏いながら深く考え込むような独自の世界を作る。こんな作曲技術の粋をこらしたような曲が書ける人物がうっかり他人の曲に似た部分を無意識にでも紛れ込ませるとはとても思えない。

ショスタコーヴィチがたった二十歳そこそこで書いた第1番の交響曲は古典性と独創性の絶妙な混合物だった。これを聴くとショスタコーヴィチにとって「古典性=パロディ」と言う風にも聴こえる。

榴岡に帰り着くと、ちょうどN響アワーでサン・サーンスの「オルガン交響曲」をやってた。エマニュエル・ヴィヨームという(比較的)若い指揮者が実に颯爽とカッコ良く熱演してた。でもこの曲はフランス人のサン・サーンスが当時のドイツ・オーストリアのスタイルでいかにも壮麗でカッコ良く書いた曲のようで、どこかベートーヴェン以降のいわゆるクラシック音楽の黄金時代のパロディのように聴こえる。ドビュッシーでなくても「古くさいつまらない曲」と言いたくなってしまう。

ゲルギエフの8番はパロディ的な側面をすべてそぎ落として劇的な面を強調する。もし、ショスタコーヴィチがこの曲しか書かず、マーラーや他の曲も存在しなければゲルギエフは正しい。悲劇の主人公の人生の葛藤が陰影の濃いレリーフのように刻まれて行く。

でも、じゃあ5番はどうするの?マーラーの曲はどうするの?1曲1曲で他を知らん顔するのはやっぱり一面的な態度だし、ショスタコーヴィチの本来の意図から外れるような気がする。ではショスタコーヴィチの本来の意図とは何か?特にこの8番ではそれがどうしてもわからない。マーラーの7番も本来の意図がいまだに読めないでいる。8番の意図が読めないのはマーラーの7番に似せた結果なだけなの?

う〜ん、ショスタコーヴィチの第8交響曲は、難しい。
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