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NHK教育「テレパシー少女蘭」 [日常のあれやこれや]

気に入っていた「電脳コイル」の後番組として始まったNHK教育のアニメ「テレパシー少女蘭」を初回からずっと見てる。心霊オカルトネタというのは昔の少女マンガではありがちだった。それをテレビアニメでやった、と言う感じ。ジングルが弦楽合奏だったりして、いにしえのスーパージェッタートリトンコナン(名探偵じゃないよ、グレートでもないし)なんかの古き良き時代の雰囲気をかもしている。

「テレパシー」はSF小道具のように思われることがあるけどたいていの場合「SF」とは無関係で、この「蘭」のような扱われ方が普通。主人公の中学生の少女蘭は人に触れるだけでその人の考えていることがわかるし、テレパシスト同士はその能力で遠隔通信が可能。2週間になぜか必ず一回突然巻き込まれる事件を、その能力を使って解決していくというお話。

「電脳コイル」のそれなりに志の高いテーマと、それに寄り添うように練られたディテールの表現とくらべると、はっきり言ってかなり落ちるけど、オカルト話としては見ていて「あは、あはは、あはははあ」と十分痴呆的に楽しめる。

しかし、何が気に入らないと言ってこの主題歌。言葉を聞き取られることを拒否するような日本語の発音。まるで苦労して日本語を覚えたアメリカ人が初めて日本人に話しかけているかような発音で歌っている。

普段、日本語でこんなしゃべり方するやついないだろ。それとも日本語を操ることができない外国人を馬鹿にしてるのか?あるいは英語の発音に言及すると人種差別主義者だと弾劾される最近のアメリカに対するアンチテーゼか?

僕より上の世代がアメリカンポップスに影響を受けて「日本語はロックには似合わない」とか言ってへんな発音で歌っていた(典型は矢沢永吉やね)けど、あれとそっくり。ギブミーチューインガムの世代ならコンプレックスが綯い交ぜになった歌を歌ってもしょうがないけど、お前たちは違うだろ。

ロックと言語とはまったく次元の違う概念で「日本語が合わない」というのは単に英語で歌われているそれまでのロックやポップミュージックと置き換えができないと言っているにすぎない。あたりまえだ。もしロックが英語でなければ成り立たないのなら僕の好きなチェコのUž jsme domaなんかどうする?現時点で活動中のロックバンドでオヤジの鑑賞眼に耐えるトップバンドはチェコ語でどばどば歌っている。

モーツァルトはオペラを最初はイタリア語で書いた。当時はオペラの本場はイタリアだったから。でも(非常に短い)後半生では自分の母国語で歌うオペラを書くようになる。「オペラ」であることの本質と使用言語とは無関係であるというあたりまえのことを実行しただけである。

それに言葉は呪術である。ただの音高の違う長短の音列であるメロディが、言葉を伴うことで力を持つ。万葉の時代では名前をあからさまに呼ぶことはその人に不幸をもたらすと思われていた。また恐ろしい怪物もその本当の名前を呼ぶことで退治することができる。それほど言葉は強いものと考えられていた。

この「蘭」の主題歌はそういった言葉の呪術性をないがしろにしてしまっている。なぜそんなことをしなければならない?僕より若い世代に、いまだに欧米コンプレックスがあるのか?もしそうだとするとそっちの方が根は深いかも知れないけど。

平沢進の歌う日本語の発音を聴いてみるといい。歌詞は何を言っているのか理解するのは難しいけど、言葉の持つ呪術性は理解を超えてイメージとして直接伝わってくる。聴くものを催眠術に陥れるかのような日本語には、あやふやなところはない。

若いヴォーカリストみんなに平沢進のようであれ、とは言わない。でも自ら貶めるような行為はしてほしくない。というか、もうやめようぜ、こういうカッコつけだけの歌は。ちっともカッコ良くないし、そもそも画面の下の文字がなければ何歌ってるのかわからんし。でも多いんだよな、こういうの。全然理解できん。


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