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「テレパシー少女蘭」最終回 [日常のあれやこれや]

気がついたらほとんど全回見ていた教育テレビの「テレパシー少女蘭」は今日が最終回だった。お子様向け番組にいい歳したジジイが難癖つけるのもどうかと思うが、ちょっと。

前回からの続きで、自然を破壊する人間に対する自然側の代表としてのオオカミが、人間の暴挙を止めるために人間の底に眠る動物の意識を目覚めさせる。蘭と翠は助けようとするが逆に動物に変身した人間たちに襲われる。

途中で翠は同じ能力を持つ学校の先生(名前なんだっけ?)と未来の地球にとばされる。そこは人間だけでなく動物も住めない廃墟だけど木々は茂って空は青々としている。

最終的には蘭が意志の強さを発揮して動物になっていた人間は元に戻り、オオカミは説得されて人間に猶予を与えるような言葉を残して去る。

どうも安直な感じがする。別に自然破壊をもっとやれ、というわけではない。大きなテーマに対して蘭も翠もその他の人物もオオカミも含めた登場人物が、他所から借りた言葉で語っていて、自分たちの言葉で語っていない。オオカミの立場はまったく「ナウシカ」のオームだし、その論旨はすでに常識となっている産業社会の自然に対する影響の大まかな繰り返しでしかない。

いくら正しいことを言っても他人の言葉を借りてくるだけでは虎の威を借る狐でしかなく、繰り返されるたびに言葉はどんどん形骸化して行く。本当に大切なことであると思うなら自分の言葉で語るということが重要だと僕は思う。

それに、オオカミや「ナウシカ」のオームのように自然を擬人化(人として描かれてないけど実質的に意思疎通の可能な存在として)するのも、わかりやすくはなるけど、危険でもあると僕は思う。 自然の擬人化は、人間と自然が対等の存在であるという幻想を助長する。僕はこれが非常に大きな問題であると思っている。

僕は「鯨を殺すな」に代表される自然保護運動に西欧の人間至上主義的な傲慢の匂いを感じる。そう感じる人は特に日本人を含めた東洋人には多いと思う。

地球はこの近辺1パーセク四方で(何もない極寒の空間を除いて)物理的には極端に安定な環境を、数十億年の間ずっと維持している。昼夜の温度差が200℃なんてこともなく、400℃の硫酸の雨が降ることもなく、風速100m/sを超えるような風が吹くこともなく、ずっと穏やかだった。そこで生物はひとり変転を繰り返してきた。生まれてこのかた生物種が安定だったことはない。

もし人間が自然を破壊して他の動植物を巻き添えにして死に絶えたとしてもこれまでカンブリア紀末や白亜紀の終わりにあったような(他にもたぶんいっぱいあった)大絶滅の繰り返しでしかない。自然にとっては、ああ、またか、というような現象でしかない。地球の物理的な環境は太陽が赤色巨星になる数十億年先までおそらく安定なままであろう。生物がすべて死に絶えたとしてもちょっとリンなんかの特定元素の分布が偏ったり、大気中の酸素濃度に変化があるくらいで大勢に影響はない。

「自然破壊」もそれは人間にとっては致命的であるという意味での、人間から見た破壊でしかない。人間が自分でかってに自分に適した環境を破壊しているに過ぎず、たとえば金星の地表環境は破壊されているわけではなく現状で自然なのだ。

つまり人間も自然の一部であり、自然破壊の問題は最終的に人間に帰ってくる問題だから重要視しなければいけないということにすぎない。自然を擬人化して対等なもののように見ることは自然を矮小化してまるで制御可能な対象のように見なしてしまう危険を感じる。オオカミに対する説得とはまさしくその危険を冒すことになる。

ということで、最終回にも関わらず、安直だったぜ、「テレパシー少女蘭」。この枠の次もアニメらしい。とりあえず期待。


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