SSブログ

日曜美術館再放送 [日常のあれやこれや]

夕方横浜から仙台に戻るとちょうど日曜美術館の再放送に間に合った。「だまされて“見える”錯視芸術の快楽」と題して「だまし絵」の話題だった。

だまし絵は子供の頃面白く見た。アルチンボルトやヘイスブレヒツが紹介されていたが、それよりも古いボッシュやずっと後のシュルレアリスムの画家たちがいっぱい描いていることは紹介されなかった。マグリットやデルヴォー、エッシャー、そして何よりダリがそう言う絵を描いている。

彼らが除かれたということはどっちかと言えば技法の勝った人が取り上げられたということらしい。逆に絵にこめられた「謎」がわかりやすい人たちが取り上げられたと言える。

わかりやすいというのは語弊がある。決してわかりやすくない。ぱっと見てなにが書いてあるのかわからない絵もあるし、見るために物理的な努力を(視点を変えるとかもっと特別な動作を必要とするる)強いる絵もある。でも「言葉で語りやすい」画家たちであり作品であると言えると思う。

見るための答えを知ってしまえばむしろ作品の意図はわかりやすい。それらの作品では見る側のその答えを得るための努力そのものが重要なので「こうすればこう見えます」と言ってしまった時点で作品としては主題を語り終えているものが多い。

この番組ではいつも、核心を突く言葉を探しながらなかなか象をなでるようなコメントしかできなかった姜尚中が言葉少ないながら生き生きと語っている。作品の「語られやすさ」が影響しているように見える。異化作用をもたらす装置としての「だまし絵」はゲストを含めて語り尽くされていてその点では充実していた。

でも、僕としては同じような「だまし絵」の画家の作品でも「語られにくい」ものを一緒に取り上げてほしかったし、ヘイスブレヒツのカンバスの裏を描いた絵に対して「気がついたら後がない」というのはまさしくその通りだけどその後を語ってほしかった。絵画について語るということはどの作品に対してであれ「その後を語る」いうことなのに。

この番組を見て初めて福田繁雄が今年始めに死んでいたというのを初めて知った。非常に残念。大好きだったのに、悲しい。誰でもかならず死ぬんだけど、好きな人が死ぬのは悲しい。嫌いな人やどうでもいい人が死ぬのはなんとも思わないので人が死ぬたびに「どき」「どき」なんてはしないけど。落語の「くやみ」やがな。

その後のN響アワーは「ドヴォルザーク」。チェロコンチェルトがメインだった。美しいメロディが次々現れる名曲であるというのはよくわかるけど、僕の趣味としては「だからどうした」。ドヴォルザークが新大陸に渡って何がうれしくて何に苦労したのか伝わらない。残り時間は新世界交響曲の4楽章。子供の頃からよく知ってる曲だけど提示が一段落した後の弱音のシンバルが何のためかいまだにわからない。

「日曜美術館」の続きで言えば「わからない」ことが重要なのかも。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。