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ゲルギエフ「ショスタコーヴィチ交響曲第1&15番」 [クラシック]

先週出たばっかし。マリインスキーレーベル、マリインスキー交響楽団。オーケストラの自主レーベルってやたらと増えてるような気がする。

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先週腰が痛くて寝ていてヒマなので、タワレコのネットショップに注文していた。

ゲルギエフのショスタコーヴィチの交響曲は4、5、7、8、9の録音がフィリップスにあるけど、どれもひどい録音でとくに7番はなんか遠くのほうでかってにやってるみたいな感じだった。これは逆にオーケストラに取り囲まれてるみたいな録音。弦と金管打楽器の遠近感も極端についてる。まあ、録音なんて音楽が分かりゃいい、といえばそうなんだけど。

今回のお題はショスタコーヴィチの最初と最後の交響曲。1番はショスタコーヴィチが学生のときに書いた曲で「俺って天才、楽勝、ははは」みたいな曲。こなれた作曲技術でたくさんの要素がひとつの曲に閉じ込められている。

ゲルギエフはいつものようにカッコ良く、学生の曲ではなく老大家の曲のように、例えばプロコフィエフの交響曲のように響かせる。まあ、こういうのもありかも。

問題は15番のほう。この曲はいろんなパロディが、あからさまだったりこっそりだったりと違いはあるけど、ふんだんに現れる曲。ちょっと聴くとそのパロディになにか意味があるような気がして、悩んだりするとあっという間に曲を見失う。

ゲルギエフはあまりパロディックな表現はお気に召さないようでなるべく強調しないように、まるで初めからそこにあったかのように演奏する。でも例えば第1楽章の「ウィリアム・テル」の行進曲は、もうまんまなのでどうしようもないという感じで、それだけ沈めてもぽっかり浮かび上がってしまう。

また、第4楽章の一番最初、ワーグナーのワルキューレの、ブリュンヒルデがジークムントにヴァルハラへついてこいという場面の金管のテーマが、そのまんま繰り返され(ワーグナーではその3音のテーマが出てくるたびに音程が上がるけど、ここでは下がっていく)て、弦がピアニシモで「ラーファ↑ーミー」ときてこれはもう「トリスタンとイゾルデ」の頭のところにしか聴こえないんだけど(この後もブリュンヒルデがたびたびあらわれるけど、そのつどなぜかトリスタンが短くなって現れる)、それが第1主題に転がっていく。

この部分をゲルギエフは雑念を払うかのように「ワーグナー?わしゃ知らん」というような音楽を鳴らす。これがどうも無理をして苦しそうに聴こえてしまう。

でもその後のパッサカリア風の部分(ショスタコーヴィチはどうやら本音を語るときにはパッサカリアを使うみたい。このトゥッティの部分をハイドンの「ロンドン交響曲」の出だしに聴く人がいるけど、それは空耳アワー。たしかにそっくりだけどこれは別もの)は音響的に充実している。こういう部分はゲルギエフの姿勢に合ってる。それに最後のコーダの部分はゲルギエフのリズムを溜めないフレージングがよく合っていてこの部分の美しさがわかりやすい。打楽器のビートがはっきりしなかったりティンパニのパッサカリア主題が重かったりするとこの最高の音楽をぶちこわしてしまうので、ゲルギエフは正解。

でも、ゲルギエフの15番に対するアプローチは総体としては疑問。この名曲の1面しか表せていないようで、どこか舌足らずな感じが残る。2楽章は平板だし。

僕は、この曲はショスタコーヴィチの、少なくとも交響曲の中では1番の傑作だと思っているし、20世紀後半の50年間に作られた音楽のなかで後世に残すべきものの最右翼だと思っている(基準は「内容」「他にない」「完成度」。ちなみにこの他は例えばコルトレーン「至上の愛」、ピンク・フロイド「Wish You were Here」、キング・クリムゾン「Red」とか。趣味がわかるな)。

そんな曲なのに、ろくな録音がない(シャレじゃないよ)。今回のゲルギエフは比較的マシ、ということで。


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