ショスタコーヴィチ交響曲第10番について - その1 [音楽について]
先日第5番の交響曲について僕が思っていることを書いた。5番を書いたらやはり10番に言及しないわけにはいかない。この2曲は良く似た成り立ちをしている。しかしこの10番の方は一筋縄ではいかないし、僕にはちょとした思い込みがあってその説明にはある前提が必要になる。
ということでこの曲に関してはちょっと長くなる。まず最初に作曲当時のショスタコーヴィチの状況を整理しておく。そんなことは音楽とは関係ない、と普通なら僕も言っているがこの曲(と5番)ばかりはそうは言っていられない。
会議の直後にはモスクワとレニングラード両方の音楽院教授職を解雇され、安定的な収入を断たれる。恐怖が現実問題となる。それ以降は映画音楽を書いたりして糊口を凌ぐ生活が続く。この頃書いた映画音楽に「ベルリン陥落」がある。あの、朗々と鳴り響くオーケストラと合唱の空疎な大曲である。また、オラトリオ「森の歌」を初演して次の年のスターリン賞第1席を得る。このおかげで命がまたつながることになる。
そんな中でも彼はその間に他にも多くの作品を書いた。その中にはヴァイオリン協奏曲の第1番や歌曲やカンタータがあったが、その多くは当時の状況では発表できないと彼は考えていた。つまり第4番の交響曲のように完成後はお蔵入りである。当時、第4交響曲の自筆スコアは戦争のドサクサで散逸してしまっていた。それに関する彼の言葉は残っていないけど屈辱的な思いを持っていたことは想像に難くない。協奏曲第1番もヘタをすれば同じ運命をたどることが彼の目には明らかだった。
ちなみに、幸いなことに4番のスコアはこの数年後パート譜から再現されている。
プラウダ批判に対する交響曲の第5番のころより彼は歳をとり、自分の本心を隠すのがうまくなった。第5番のように一歩間違えば全く逆の結論を導いてしまうような危うさ、複数の解釈を許す困難さはこの第10番にはなく、安定した古典的な構造が貫かれている。
しかし、ざっと全体を眺めたときにアンバランスな部分があってそれが気になることがある。例えば第2楽章の極端な短さ、第3楽章の謎めいた旋律の頻出、フィナーレの重く肥大した序奏とそれに続く主部の軽さ、などなど、これは公開討論会で批判の対象となった。しかし今回の批判は作曲姿勢がイデオロギーに照らし合わされたわけではなく、そういった曲の持つ印象や構成をあげつらう批判しか現れなかった。この曲は最終的にスターリン賞などを逸するがショスタコーヴィチはちょっと安心したに違いない。
もともと彼は古典的な手法に長けていた。若書きの第1番の交響曲でさえ緻密な構成を持っていた。作曲家の年齢を知らなければ、老練な大家が手慰みのつもりで書き始めたもののつい本気になってしまった、というような曲に聴こえる。
また第5番の交響曲は批判に対する回答として、そして迎合や変心ではなく自分の本来の意志と矛盾しない内容を曲に持たせるために古典的な構成を使った。この曲も非常に緻密な構成を持つ曲だった。
ここで僕が言っている「古典的な構成」とはすなわち「ソナタ形式」のことであり、またそれをいくつかの楽章に採用した「ソナタ」という楽曲のことである。交響曲とは正統的にはオーケストラのためのソナタである。
僕にはショスタコーヴィチが第10番の交響曲で「ソナタ形式」にこだわっているように見える。
次回はちょっと寄り道して、僕がここで問題にしている「ソナタ形式」について。
ということでこの曲に関してはちょっと長くなる。まず最初に作曲当時のショスタコーヴィチの状況を整理しておく。そんなことは音楽とは関係ない、と普通なら僕も言っているがこの曲(と5番)ばかりはそうは言っていられない。
2 ショスタコーヴィチ交響曲第10番
1945年に第2次世界大戦が終わってショスタコーヴィチは心底ほっとしていた。第9番の交響曲の軽くていたずらな、それ以上になんというべきか、やんちゃな気分はそれを表しているが、それまで「第9番」を合唱付きの大交響曲にすると自身で宣伝していたせいもあって、初演後に批判が噴出する。2.1 ジダーノフ批判
そして48年には中央委員会書記のジダーノフが先導するソ連作曲家連盟の特別会議で槍玉に挙げられ自己批判をさせられる。年表を見ると会議の半年後にはジダーノフは急死しているが、ショスタコーヴィチに対する圧力が緩むことはなかったらしい。ショスタコーヴィチは恐怖した。バレエ「明るい小川」やオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」に対するプラウダ批判のときのような悪夢がよみがえってくる。会議の直後にはモスクワとレニングラード両方の音楽院教授職を解雇され、安定的な収入を断たれる。恐怖が現実問題となる。それ以降は映画音楽を書いたりして糊口を凌ぐ生活が続く。この頃書いた映画音楽に「ベルリン陥落」がある。あの、朗々と鳴り響くオーケストラと合唱の空疎な大曲である。また、オラトリオ「森の歌」を初演して次の年のスターリン賞第1席を得る。このおかげで命がまたつながることになる。
そんな中でも彼はその間に他にも多くの作品を書いた。その中にはヴァイオリン協奏曲の第1番や歌曲やカンタータがあったが、その多くは当時の状況では発表できないと彼は考えていた。つまり第4番の交響曲のように完成後はお蔵入りである。当時、第4交響曲の自筆スコアは戦争のドサクサで散逸してしまっていた。それに関する彼の言葉は残っていないけど屈辱的な思いを持っていたことは想像に難くない。協奏曲第1番もヘタをすれば同じ運命をたどることが彼の目には明らかだった。
ちなみに、幸いなことに4番のスコアはこの数年後パート譜から再現されている。
2.2 雪解け
そして53年3月にとうとうスターリンが脳内出血で死んだ。ショスタコーヴィチはそれまで暖めてきた第10番の交響曲を一気に完成させてその年の暮れには初演にまでこぎつける。曲想はそれより数年前の作品とされる1番のヴァイオリン協奏曲やその他の曲とよく似ているのでそのころから書いていたんだろうと思われるが、この曲の初演を彼は最優先させる。ところがまたこの曲は批判にさらされ、公開討論会まで開かれることになる。プラウダ批判に対する交響曲の第5番のころより彼は歳をとり、自分の本心を隠すのがうまくなった。第5番のように一歩間違えば全く逆の結論を導いてしまうような危うさ、複数の解釈を許す困難さはこの第10番にはなく、安定した古典的な構造が貫かれている。
しかし、ざっと全体を眺めたときにアンバランスな部分があってそれが気になることがある。例えば第2楽章の極端な短さ、第3楽章の謎めいた旋律の頻出、フィナーレの重く肥大した序奏とそれに続く主部の軽さ、などなど、これは公開討論会で批判の対象となった。しかし今回の批判は作曲姿勢がイデオロギーに照らし合わされたわけではなく、そういった曲の持つ印象や構成をあげつらう批判しか現れなかった。この曲は最終的にスターリン賞などを逸するがショスタコーヴィチはちょっと安心したに違いない。
2.3 第10番の特徴
公開討論会で上げられた曲の欠点のうちいくつかは彼自身がその場で認めたということもあり、今でもこの曲の特徴として言われることがある。ところが、これは曲をもう少し注し深く聴けば、それ自身が問題ではないことがわかる。もっとも大きな問題で、この曲を異様にしている点、それはこの曲の古典性である。もともと彼は古典的な手法に長けていた。若書きの第1番の交響曲でさえ緻密な構成を持っていた。作曲家の年齢を知らなければ、老練な大家が手慰みのつもりで書き始めたもののつい本気になってしまった、というような曲に聴こえる。
また第5番の交響曲は批判に対する回答として、そして迎合や変心ではなく自分の本来の意志と矛盾しない内容を曲に持たせるために古典的な構成を使った。この曲も非常に緻密な構成を持つ曲だった。
ここで僕が言っている「古典的な構成」とはすなわち「ソナタ形式」のことであり、またそれをいくつかの楽章に採用した「ソナタ」という楽曲のことである。交響曲とは正統的にはオーケストラのためのソナタである。
僕にはショスタコーヴィチが第10番の交響曲で「ソナタ形式」にこだわっているように見える。
次回はちょっと寄り道して、僕がここで問題にしている「ソナタ形式」について。
2010-07-20 23:33
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