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「物理数学の直観的方法<普及版>」読了 [読書]

長沼伸一郎著、ブルーバックス。

1120直観.jpg
最初に出版されたときけっこう有名になっていたのでタイトルは知ってたけど、僕はそのころすでに中堅社員にさしかかっていて、もう手遅れだと思ったので読んでなかった。今回軽装版で出たので読んでみた。突っ込みどころもいろいろあって面白かった。

僕も数学、物理学の分野を理解する上では「直観」は重要だと思ってきた。というより何か具体的なイメージが持てない限り全然理解できたという気がしなかったし、実際に理解できていない分野はやっぱり頭の中にイメージが持てていない。僕にとって「理解する」とは頭の中に具体的なイメージができることと同じ意味である。他の人に聞いたことはないけど、たぶん他の多くの人もそうだろうと思っている。

僕の場合、「理解」にはいくつかの段階がある。
  1. わかってない
    イメージがない。式を見ても意味するところがわからないだけでなく、簡単な式でさえ覚えられない。
  2. Gotcha!
    自分なりのイメージをつかむ。そのイメージを使って式の意味がわかり、簡単な式なら覚えていられるようになる。
  3. 試してみる
    具体的な例に当てはめてイメージを操作してみる。イメージは修正されたりしてシンプルになる。
  4. 使いこなす
    最初のイメージが薄らいできて代数操作のイメージが取って代わる。思考の効率が上がる。
  5. 初心を忘れる
    自分が最初持っていたイメージは忘れている。あらためて人に訊かれたりすると、あれ? なんだったけ?となる。
というような感じ。僕にとっては、この本で言っている「直観」というのはこの第2〜3段階でのイメージのこと。もう少し詳しく言うなら、「直観」あるいは「具体的なイメージ」とは、僕の場合は何らかの「身体的な操作が伴ったモデル」のことである。

例えばこの本の第1章にある線積分では、具体的な山の形と道筋とを頭に描くことで、やっていることを思い浮かべられるようになるが、線積分を道具として何度も使っているとそのうち最初のイメージは薄れて、単に式を代数変形するというイメージに置き換えられていく(代数変形にもイメージは重要)。だから道を表す関数が変数分離できるかとか解析的に解が表せるかとか展開して低次をとった方がいいかとかいったことがなんとなくわかるようになる。

ところが、人に教えてくれとか言われると、説明に窮してしまう。最初のイメージを説明できればいいんだけど忘れてしまっているせいでそれができなくて、「だってあたりまえじゃん」などと言ってしまって顰蹙をかうことになる。

この本の前半8章までは僕も得意の分野なので、だいたい僕の持っていたイメージと似たようなもんだった。しかし、もうちょっと突っ込んでも良かったのではないか、と思えるところもある。例えば電磁気学のdiv、rotのイメージの説明があるけど、ここまで言ったのならその積分形であるガウスの定理やストークスの定理まであと一歩なのに言及がない。積分形のイメージを持って初めて「使う」という段階に入れるのに。また、フーリエ展開を連立方程式のイメージで説明するのは面白いと思ったけど、それなら先に線形空間と直交基底のイメージを持った方が応用範囲は広いんではないか、と思ったし、複素関数ではもっと効能に対するイメージを説明した方が近道ではないかとも思った。

一方で、僕のあまり得意でない後半の熱力学と解析力学は、なるほど、と思えて面白かった。特に解析力学は量子力学の「まくら」として勉強しただけでぜんぜんわかってなかったので非常に参考になった。

しかし、最後についた「やや長めの後記」はぜんぜん納得いかない。この中身は「作用行列」を使って天体の三体問題から西欧医学や経済の問題を扱う。結論にそれほど異論はないけど、それを導くための「作用行列」がそれほど万能には思えない。これは成功した人やえらい人にありがちなパターンに思える。ひとつの有用な概念を広い範囲に応用しようとする、ほとんど拡大解釈と言っていい強引な牽強付会に感じる。

「直観」あるいは「具体的なイメージ」は大切だけど、それは本質を取り出したものだからであって、最初に言った「モデル」の動作が正しい限りにおいてである。僕は「直観」と「比喩」とは厳密に区別すべきだと思っている。「比喩」とは「似ている身近な対象物に置き換える」ことであって本質的な部分で共通している結果似ているならいいけど、そうではない場合は役に立たないばかりか誤解を助長することになる。

例えばシュレーディンガー方程式の解を水面の波なんかでイメージするのは、比喩としてはあり得るかもしれないけど明らかに正しくない。あるいは、完全流体のイメージで電磁場を説明するのは連続の方程式を満足すると言う意味で正しいけどそれ以上の、電磁波の伝播や偏光までをそのまま説明しようとすると無理がある。

この「長めの後記」にある「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない(そのことは本の目次後の扉ページを読んだ人だけアクセスできる「追加原稿 電子版」でも言い訳があるけど、それでもむりやり「作用行列」に非線形な効果を取り込もうとしている)。ここには「パン屋」と「鍛冶屋」の状態をベクトルにして鍛冶屋がかまどを作ってパン屋に供給し、パン屋はパンを焼いて鍛冶屋が食べる、というような作用は非対角要素として表現できる、と言うような話があるが、かまどができあがる前はパンの材料がいくら潤沢でもパンは焼けない、というような簡単な非線形さえ表現できない。

「...宇宙や世界に存在するあらゆる要素を残らず書き出してそのような行列を作ると、実はこの巨大な行列は宇宙や世界そのものを原理的に表現しうるのである」とある(この万能「作用行列」はおそらくハイゼンベルクの行列力学のイメージの流用じゃないかな)が、これには無理があると感じる。これはさっき書いたいかにもえらい人にありがちな成功パターンをなんでもかんでも適用してうまくいかそうとするこじつけに思える。

どんなに有益でシンプルな理論でも適用範囲をまず最初にはっきりさせておく、というのは重要である。特にその理論に関する強力な「直観」が手に入ったときはなおさらである。
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コメント 6

「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない?

>突っ込みどころもいろいろあって

とありますが、具体的には何処ですか?
貴兄は“「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない”と仰いますが、そのために筆者はスイッチ演算子なるものを導入したのでは?
現に氏のサイトでは、簡単な非線形の例としてロジスティック方程式が解かれている。

そもそも、非線形の関数を線形部分に区分して、近似する方法は非線形力学などの分野では極めて一般的な方法であります。
これがどうして、貴兄がおっっしゃったように「言い訳」になるのか理解できません。

この論議の眼目は、どのような方法をとっても、演算の手間が不可算無限大になるかどうかである、という点も追加原稿に書かれています。
それこそ、パン屋の構成要素からなにからまで、ばらばらにして作用マトリックスを作れば、原理上は表せないものはないと思うのですが。

私はあの本の、あとがき部分に対して未だ十全な確信は持てていませんが、貴兄の賢しらな指摘は的を射てないのではないかと考える次第です。

乱文失礼いたします。
by 「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない? (2011-12-22 16:43) 

decafish

コメントありがとうございます。
残念ながら僕は全部を理解した上で文章を書いているわけではなく、自分のレベルにあった勝手な思い込みに基づいて書いていますし、自分の憶測に関して「ではないだろうか」などと殊勝な表現をいちいち使うのがまだるっこしいので断定的ですし、新しい仮説に必ずCitationを上げるなんてこともしません。従って「貴兄の賢しらな指摘は的を射てない」とのご指摘はまさしくその通りです(「賢しらな」と言う形容詞が的確です)。
しかし、僕は別に著者に義理があるわけではなく、ましてや講談社やAmazonにもありませんので、僕の正直な印象をまさに無責任に書かせてもらっています。その点が貴兄のお気を悪くしたようですが、それはしかたないことで、そのことに対して僕としては弁解や謝罪はしません。
ただ、ありていに言わせてもらうと、「作用行列」の話は「全宇宙を作用行列として表現」できたとして何が面白いのかわからない、と感じました。まして非線形性(という「闇」)を行列要素に押し込むことまでして「作用行列」にこだわる理由が理解できません。ただ、その意味で僕の「「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない」は確かに言い過ぎだと言う認識はあります。しかし「作用行列」のような表現が役に立つのは線形な現象に関してだ、と僕は思っています。記事にもちょっと書きましたが、例えば量子力学では行列のイメージとその表現は有用だと僕は感じています。これこそ著者の言う「直観的」にふさわしいイメージだと思います。そして量子力学では状態の「重ねあわせ」ができることが重要だと思っています。
もうひとつ、貴兄が「議論の眼目」とおっしゃる演算の回数が無限になったとき無限の濃度が異なる、ようするに質の異なる無限になるというのは数学的にはその通りですが、宇宙を表現する作用行列に関してそうだというのも納得いきません。
実際の宇宙では「実質的に無限」というのはたくさん存在しますが「真の無限」はありえない、と僕は思っています(ここで僕が言う「実質的に無限」というのは人間が認識できないほど大きいけど「有限」という意味です)。そして濃度の差という質的な違いは「真の無限」でしか現れません。「真の無限」は実数の性質であり、実数というのは性質がスケールによらない、という特殊な想定に基づいています。もちろん宇宙を表現するための実数にかわる数学体系を誰も構築していないのでこれも僕の勝手な思い込みですが、もしこの宇宙に「真の無限」が存在すればそのリソースはどこにあるのか、というのが僕の疑問です。
従って僕の印象からすれば、「真の無限」の存在を仮定しながら「全宇宙を表現する」というのは矛盾である、と感じます。
他にも突っ込みたい点があったのですが、申し訳ありません、忘れてしまいました。「忘れる」というのも僕の得意な動作のひとつです。
無責任な言辞で「アホちゃうか」とお思いでしょうが、もしなにかコメントするべきことがある、とお思いでしたらぜひお願いします。
by decafish (2011-12-22 21:10) 

「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない?

管理人様、早速のお返事ありがとうございます。

まず、私の言葉遣いが気に障られた由、お詫びいたします。
改めて言うまでもないことですが、ネットは顔が見えないため、言外のニュアンスが伝わりにくく、本意や柔らかな意図が伝わらず、せっかくの議論が感情的になり深まらないことがあります。
それは非常に残念なことです。前回のコメントは、その点を踏まえ、反省しております。

さて。
まず、一つ目。

貴兄は、筆者の提案する作用マトリックス(およびスイッチ演算子)を用いれば、一般の非線形現象も表現できることはお認めになるのですね?
この点、「言い訳」という揶揄を謝罪する必要はありません(特に私も何の利害関係もない第三者ですから)。
貴兄の個人的ブログで、自身の信念に基く内容なのですから。
ただ、明らかな誤解であったことを認めてくださっただけで十分です。

次に二つ目

仮に「非線形現象を線形に押し込めて何が面白いのか」という貴兄の考えに関してです。
面白い、面白くないは個々人の価値観といえばそれまでかもしれませんが、いくつか私見を述べます。

1、先のコメントに述べたとおり「非線形現象は細分化された線形で表すことによって数学的に処理することはありふれた手法」です。
例えば非線形力学の分野でも極めてよく応用されており、個人の面白い・面白くないという価値判断以前と考える。

2、次は本の内容そのままですが・・・
非線形のなかでも複雑系(あの本の中では三体問題)を作用マトリックスで表現した場合、関数として表現するのに、可算無限大か可算無限大かで、解の導出(すなわち関数の形式の表現)が可能かどうかが判断できる。
すなわちポアンカレの証明以降の(極めて難解で、摂動論の範囲でしか証明されてないともされる)三体問題に最終決着がつく可能性が高い。

3、追加ファイルに述べられた「系の臨界曲線」はまさに作用マトリックスという考えをベースに導出できたわけですが、解析学300年の歴史で、かかる大問題が極めてクリアに議論できることは、理系の人間であれば「『何が面白いのかわからない』という感覚がわからない」というのが私個人の正直な思いです(もちろん、かかる議論が正しければの保留つきではありますが)。

4、後半の貴兄の文章は文意が掴めませんでした。申し訳ありません。
あくまで、私の理解でですが、宇宙は「有限」にも係わらず(この点は私も同意です)、「真の無限」=「不可算無限大」になる場合の矛盾をどう考えるのか、という疑問でしょうか?
私の理解では、(演算回数の総和が)不可算無限大となるのは、単に関数として表すことができない、という意味と受け止めています。
リソース云々という概念とは関係がないのではないでしょうか。

以上、長々と述べましたが、私自身にも未だ不明な点は数多くあります。
そして、あの本を100%完全無欠と考えているわけでもありません(文系読者を意識しすぎたためか、やや曖昧かつまわりくどい点もあると思う)。

貴兄が私の文意を汲んでくださることを願います。

by 「作用行列」は例えば非線形な効果は表現できない? (2011-12-23 15:43) 

decafish

丁寧なコメントありがとうございます。詳細な指摘をいただいて、僕もいつもよりまじめに考えないといけない、と思うようになって「やや長めの後記」や電子版を読み直していました。以下、ちょっと長いですが、僕としては面白い議論ができていると思っていますので最後まで読んで下さい。

なお、私は気に障ることなどありませんので(歳のせいで感性が岩砂漠化)、お気になさらないようにお願いします。それよりもこういった議論がここでできなくなってしまう方が僕にとってつらいことなので、ご理解ください。

まず、僕は研究者ではなく技術屋なので、上で言った「面白い」ということは「理解に役に立つ」というような意味だと思って下さい。従って貴兄の視点とそれほど違っているわけではありません。

0、非線形現象を「作用行列」で表現できる、と言う点に関して、僕の否定的に断定的な言辞を撤回します。不可能ではありません。ただ、やはり「スイッチ演算子」はどうも恣意的な感じがします。たしかに実際の現象の中に「スイッチ演算子」のような要素が潜んでいて、その結果非線形性が現れるということはあると思います(というか間違いなく存在する)。しかしそうであっても、なにか「作用行列」と違った表現もあり得て、場合によってはそっちの方がわかりやすいということはあると思います。例えば記事に書いた「かまどができあがる前はパンの材料がいくら潤沢でもパンは焼けない」という非線形性は、パン屋と鍛冶屋のなんらかの「積」として表現する方がずっと簡単です。

1、「非線形現象は細分化された線形で表すことによって数学的に処理することはありふれた手法」に関して、ご指摘の内容は認識しています。僕も解析解が得られない場合(というか大抵そうですが)しょっちゅう使います。ただし、それは解が「連続でかつ微分不可能な点は高々加算個(実質的には有限個)」ということがわかっている場合です。「常に有効である」とは言えないことは僕がしょっちゅう失敗していることからもわかります。

2、三体問題が「解ける」とはどういうことか、という原理的な話になってしまうかも知れませんが、例えば解の分類(一般の三体問題の解空間に何らかの構造が入れられる)が可能になって「最終決着」と呼べると僕は思っています。「やや長めの後記」にある三体問題の話は僕には「解けない理由としてこういう見方ができる」というふうに読めました。「作用行列」の話から「最終決着」を得るにはかなり大きな飛躍が必要だと僕には思えます。

3、「臨界曲線」の話も、非線形な系にフィードバックがあると極端な現象が起こる、というカオスの数学を「作用行列」に絡めた話である、と読めました。著者はこの中でカオス理論を『「何もわからない」という台詞を超難解に表現しているだけ』と評していますが、僕にはどっこいどっこいに思えます。少なくともカオスの数学はまだ解析学を道具として使っているだけ僕にはわかりやすいです。

4、「真の無限」に関して、これは僕が舌足らずでした。宇宙を扱う限り「真の無限」はありえない(もちろん無限大だけでなく無限小もあり得ない)とすると、「演算回数の総和」は必ず「有限回」です。著者の言う「加算無限」「非加算無限」という濃度の差のような「質的な差」が現れるのは「真の無限」においてのみで、「真の無限」の存在しない宇宙ではどっちが何桁多いか、というような「量的な差」しかありません。従って「加算無限」「非加算無限」というのは著者の詭弁、と言っては言い過ぎですが、僕は齟齬を感じます。「リソース」の話は宇宙にもし真の無限があったとすれば、なので気にしていただかなくて結構です。


非線形な現象は宇宙にはいっぱいあります。極端な話、独立していると思っていたものが分解したり合体してもととは質的に全く別の物になるということもあります。そんな現象まで「作用行列」で表現可能なのか、という疑問もわきます。著者は「あらかじめあり得る状態をすべてベクトルに並べればいい」というかもしれません。しかしそれは著者の否定した「デカルト型合理主義」的な発想のように思えます。

正直に言うと、僕は「原理的に宇宙そのものを表現できる」なんて言う「万能性」をうたう言葉が現れると内容はともあれ、まず眉に唾をつけたくなります。そのせいでバイアスがかかっているということは白状します。

「作用行列」の考え方の利点や、著者の数学的な結論、それに「文明社会に与えた影響」の節まで含めて理解できますし、それほど異論はありません。ただ、「作用行列」があればあれもできるこれもできる、何でもできる、というのはまったく納得できません。

いかがでしょうか。
by decafish (2011-12-24 18:40) 

NO NAME

管理人様、コメントありがとうございます。

なにやら、議論を通じて我々のスタンスの違いがおぼろげながらも掴めてきたような気がします。

すなわち、いみじくも貴兄が述べられた「僕は研究者ではなく技術屋なので」という台詞。
まさに、技術屋さんにとっては「系の方程式が解けなきゃ意味がないだろう!」と考えるのは自然なことです。

一方、筆者は「三体問題は何故解けないのか?」という疑問から出発している。これは、本文で吐露しているとおり。
貴兄の指摘したとおり(>三体問題の話は僕には「解けない理由としてこういう見方ができる」というふうに読めました)です。

思えば、作用マトリックスという道具は、ある問題を解こうとしても極めて複雑でおよそ現場で役に立てるのは厄介極まりなく効果が小さい(いくつか自分でもチャレンジしてみました)
だって高校生レベルの簡単な変数分離形の微分方程式でさえ、スイッチ演算子を導入しないといけないのですから。

しかし、あの道具は、「解けないことを証明する」という点では、絶大な威力を発揮するツールと理解しています。

まさしく、
>、「作用行列」があればあれもできるこれもできる、何でもできる、という>のはまったく納得できません。
というのはその通りなのです。

ここに大きな考えの違いがあるのが、我々の議論の齟齬の一因ではないでしょうか。

ただ、
>「あらかじめあり得る状態をすべてベクトルに並べればいい」というかもし>れません。しかしそれは著者の否定した「デカルト型合理主義」的な発>想のように思えます。

のくだり、「すべて」のベクトルとは所詮可算無限大なのであるから、本質的な部分では、あの議論に正当性は十分あると個人的には考えています。

もちろん、その証明は一筋縄ではいかないでしょう(筆者はそれこそ「直観」で述べていますが。)。
が、厳密に正しいとすれば得られる成果は近現代数学の中でも最大級のものであろうことは確実です。
貴兄は、かかる論議に対し眉に唾をつけてしまう、とのことですが、小生は100%の確信はもてないまでも、十分精査・熟慮する価値はあるという立場です。

もちろん、貴兄のような批判的アプローチも極めて大きな価値はある。
学問の進歩とは、対立する意見の厳しい緊張の下でせめぎあう中で発展するわけですから。
そういう意味で、議論が深まるのは大変有意義なことと思います。

長々とお付き合いありがとうございました。
by NO NAME (2011-12-24 19:58) 

decafish

三体問題に関しては僕はかなり悲観的です。「解の分類」が「解けた」とするなら、解析学的な延長線上にはない、と僕は思っています。例えばスリングショットしない解(これはポアンカレさんが存在証明した)はどういう条件か、を一般的に知る方法は見つからないだろう、と思います。
一方で、僕は「解けなければ意味がない」とは思っていません。もちろん仕事で扱うときは解けなければ困るわけですが、解のある性質がわかるだけでも有用な場合があります。例えば構造安定性わかるだけでも安心して数値計算できる、と言う意味で有用です。構造安定かどうかもわからずとりあえず数値計算を回して痛い目に遭う、ということがありました。もちろん構造安定性の証明自身もたいていの場合簡単ではなく、例えば三体問題のような古い問題でさえたしか、わかっていなかったと思います。これは余談ですが。

繰り返しになりますが、非線形な問題に関してひとつの「万能工具」ですべて解決できるとは僕は思っていません。しかし、もし「作用行列」がその万能工具たりえることがわかったなら、僕は主張を撤回したうえでプライドを捨ててその軍門にくだります。「前言を翻す」のも僕の得意な分野のひとつです。

これに懲りずにまた遊びにきて下さい。
よろしくお願いします。
by decafish (2011-12-25 10:16) 

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