コンサートで思うこと [日常のあれやこれや]
昨日書き忘れたんだけど、曲の最後の音が出終わるやいなや、間髪を入れず手を叩くバカが仙台にもいた。僕はあれが大嫌いで我慢ならないので、あえてバカと書かせてもらう。都内や横浜でコンサートに行っても必ずこの手のバカがいていい加減うんざりしてる。僕は他所の国でコンサートに行ったことはないけど、実況録音なんかを聴くとヨーロッパやアメリカでも同じで全世界にこのタイプのバカは分布しているらしい。なんで音が消えて無音に戻るところまで見届けることができないのか。
音楽によって、つまり演奏者と聴衆によって空気が醸成されて、会場では別世界が形作られる。そこから現実世界に戻るときには、ちょっとクロスフェイドがあるべきである。そうすることで音楽の魔法の印象を忘れないようにすることができる。音楽の魔法は、本物の魔法に較べてはかないもので、強固な現実の前にはあっという間に雲散霧消する。そして本物の魔法はこの世には存在しない。
ところがあのバカな連中のおかげで、曲の一番最後が直接、現実に繋がってしまって、聴き手は一気に現実に引き戻され堅い現実と衝突して心の中でおでこに瘤を作る、ということになる。
例えば、小説を読んで最後の行を読み終わったとしよう。それは「めでたしめでたし」かも知れないしカフカのようにすとんと断ち切られたように終わっているかもしれないけど、たぶんそのとき全体を簡単に俯瞰して印象を定着させる、ということを頭の中でやってから、そのあと「ああ、面白かった」と現実に即した感想をもらすにちがいない。ところが音楽の場合、このバカのおかげでそう言った作業を頭の中でするわずかな時間を奪われてしまう。
彼らバカたちが作曲者や演奏者に敬意を表すつもりでやっているのではないことは、名作にも駄作にも、また名演にも駄演にも等しく必ず同じことをやることから明らかである。したがって彼らのモチベーションは、単に一番乗りを狙った子供じみた競争心あるいは自己顕示欲からやっているに過ぎないと思われる。
あのバカたちと同じことをしようと思うと、少なくともその曲がどうやって終わるかを知っていないといけない。昨日、僕が聴いた3曲はたまたま僕にとって初めて聴く曲だった。ある曲を初めて聴こうとするとき、できれば録音ではなく生で聴きたい、と思うのは僕だけではないだろう。もちろん一度聴いただけで曲のすべてを理解するなんてことは、モーツァルトではない僕らにとって望むべくもない。わずかな理解を進めるためだけでも何度も聞き返さないといけないかもしれない。でもそのまさに第1回目は、カウチポテトで携帯を見ながらではなく、生の演奏の現場で体験したいものだ。どんな人でも初めてのセックスは(以下132バイト抹消)。少なくとも僕はそう思う。
例えば、昨日のラヴェルは面白かった。その前のブラームスのように曲の構造が明らかではなく、聴いていてたぶん4楽章の曲だな、ということは4楽章目にたどり着いたときわかったけど、それがどうやって終わるのかわからなかった。出てきたテーマを再現し終わって演奏が一段落したとき、これで終わるのか、それともまだラヴェルの言い残したことが有るのか、と期待していたときまさにあのバカの拍手が入った。これで終わりだったらしい。なぜ、曲の終わりをその曲自体に教えてもらうのではなく、バカの強引な闖入で知らされないといけないのか。3千円のコンサートだから我慢したけど、何万も払ってこんな仕打ちを受けたらそのときは黙っていない、と心に誓った。
最近は録音のおかげ(とそのデジタル化のおかげ)で繰り返し同じ曲を聴くことが簡単にできるようになった。しかしエジソンが録音を発明する前は音楽は一度きりのものだった。バッハはカンタータを毎週のように作曲していたころ、その演奏が一回きりなのが当然だった。そのため一回聴くだけで理解できるように曲の構成を工夫した。そして特によくできたと思った曲は再演のために手を回したり、他の演奏機会のある曲に転用したりした。当時聴き手は初めての曲を聴く、ということが当たり前だった。ベートーヴェン以降コンサートホールが民衆に開放された時代も、人が集まるコンサートは著名な作曲家の新作の初演だった。
いや、録音が一般的になった今でも、エリック・ドルフィーが言うように音は発せられたとたんに消えていく。
バカどもよ、まず「初めて聴く」喜びを奪うな。そして、音楽の魔法を12時過ぎても心の中に存在し続けさせよ。お前たちがそれらをぶちこわしているということを知れ。
ほんとに、お願いだから。
音楽によって、つまり演奏者と聴衆によって空気が醸成されて、会場では別世界が形作られる。そこから現実世界に戻るときには、ちょっとクロスフェイドがあるべきである。そうすることで音楽の魔法の印象を忘れないようにすることができる。音楽の魔法は、本物の魔法に較べてはかないもので、強固な現実の前にはあっという間に雲散霧消する。そして本物の魔法はこの世には存在しない。
ところがあのバカな連中のおかげで、曲の一番最後が直接、現実に繋がってしまって、聴き手は一気に現実に引き戻され堅い現実と衝突して心の中でおでこに瘤を作る、ということになる。
例えば、小説を読んで最後の行を読み終わったとしよう。それは「めでたしめでたし」かも知れないしカフカのようにすとんと断ち切られたように終わっているかもしれないけど、たぶんそのとき全体を簡単に俯瞰して印象を定着させる、ということを頭の中でやってから、そのあと「ああ、面白かった」と現実に即した感想をもらすにちがいない。ところが音楽の場合、このバカのおかげでそう言った作業を頭の中でするわずかな時間を奪われてしまう。
彼らバカたちが作曲者や演奏者に敬意を表すつもりでやっているのではないことは、名作にも駄作にも、また名演にも駄演にも等しく必ず同じことをやることから明らかである。したがって彼らのモチベーションは、単に一番乗りを狙った子供じみた競争心あるいは自己顕示欲からやっているに過ぎないと思われる。
あのバカたちと同じことをしようと思うと、少なくともその曲がどうやって終わるかを知っていないといけない。昨日、僕が聴いた3曲はたまたま僕にとって初めて聴く曲だった。ある曲を初めて聴こうとするとき、できれば録音ではなく生で聴きたい、と思うのは僕だけではないだろう。もちろん一度聴いただけで曲のすべてを理解するなんてことは、モーツァルトではない僕らにとって望むべくもない。わずかな理解を進めるためだけでも何度も聞き返さないといけないかもしれない。でもそのまさに第1回目は、カウチポテトで携帯を見ながらではなく、生の演奏の現場で体験したいものだ。どんな人でも初めてのセックスは(以下132バイト抹消)。少なくとも僕はそう思う。
例えば、昨日のラヴェルは面白かった。その前のブラームスのように曲の構造が明らかではなく、聴いていてたぶん4楽章の曲だな、ということは4楽章目にたどり着いたときわかったけど、それがどうやって終わるのかわからなかった。出てきたテーマを再現し終わって演奏が一段落したとき、これで終わるのか、それともまだラヴェルの言い残したことが有るのか、と期待していたときまさにあのバカの拍手が入った。これで終わりだったらしい。なぜ、曲の終わりをその曲自体に教えてもらうのではなく、バカの強引な闖入で知らされないといけないのか。3千円のコンサートだから我慢したけど、何万も払ってこんな仕打ちを受けたらそのときは黙っていない、と心に誓った。
最近は録音のおかげ(とそのデジタル化のおかげ)で繰り返し同じ曲を聴くことが簡単にできるようになった。しかしエジソンが録音を発明する前は音楽は一度きりのものだった。バッハはカンタータを毎週のように作曲していたころ、その演奏が一回きりなのが当然だった。そのため一回聴くだけで理解できるように曲の構成を工夫した。そして特によくできたと思った曲は再演のために手を回したり、他の演奏機会のある曲に転用したりした。当時聴き手は初めての曲を聴く、ということが当たり前だった。ベートーヴェン以降コンサートホールが民衆に開放された時代も、人が集まるコンサートは著名な作曲家の新作の初演だった。
いや、録音が一般的になった今でも、エリック・ドルフィーが言うように音は発せられたとたんに消えていく。
「村には名の知れた名酒が有りますでな」 「どんなんがあるんや?」 「『むらさめ』に『にわさめ』に『じきさめ』といいます」 「『むらさめ』ちゅうたらどんなもんや?」 「『むらさめ』を飲みますとな、ほろ、と酔いが回って何ともええ気持ちになります」 「それが酒の身上やで」 「はいはい、そいでこの村を出はずれるころ、さめるんで、『むらさめ』じゃ」 「?たよんない酒やな。『にわさめ』は?」 「ここで飲んでて庭に出るとさめる」 「『じきさめ』は?」 「飲んでるしりからさめる」いやいや、これは「七度狐」で、今の話題とは関係ない。いや、関係なくもない、音楽とは煮売り屋のオヤジが言う『じきさめ』のようなものだ。「水臭い酒やな」「いや、酒臭い水じゃ」というようなものだ。もうええって。
バカどもよ、まず「初めて聴く」喜びを奪うな。そして、音楽の魔法を12時過ぎても心の中に存在し続けさせよ。お前たちがそれらをぶちこわしているということを知れ。
ほんとに、お願いだから。
2013-02-15 21:56
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