SSブログ

「科学の危機」読了 [読書]

金森修著、集英社新書。
0607scicrisis.jpg
僕には読みこなす力がなかったのかもしれないけど、僕なりにいろいろ考えた...

自然科学関係のこういうスタイルの新書だけでなく、教科書や論文ばかりを僕が読んできたせいがあるんだろう、論旨がなかなか頭に入らない。自然科学関係の本ではまず結論が提示されて、そこへの道筋が示されてそれを追っていく、というふうになっていることが多い。でもこの本は結論がどこにあるのかよくわからない。読み進めていても、ただ闇雲に手を引かれてどこを歩いているのか、どこに連れて行かれるのかわからない、という感じがずっとして読みづらい。

ときどき含まれる文学的表現(「エノラ・ゲイという母親が坊や(Little Boy)を生むという風情。...女性が子供を生むという人類史にとって極めて重要な事柄が原爆投下という極端なおぞましさと収斂する...」著者は象徴性を感じたのかもしれないが僕には言葉遊びにしか思えない)も理解しづらい。でもそれはスタイルの違いで、僕がそういうのに慣れていないだけ、ということだろう。

心情的には共感できるところが多い。現政権が「国民を守るため」と称して集団的自衛権行使のための法整備を進めるくせに、直近で国民の安全が脅かされようとしている原発に対しては「<ポスト3.11ワールド>に生きているという事実に目隠しをし、あたかも(福島の)事故がなかったかのような風情で再稼動に前のめりになる政府」「...数十年のスパンで見るなら、将来必ず大失策として位置づけられることになるだろう」と書く。苦々しさが伝わって来る。

だいたい安倍君はこないだの憲法違反に対する反論も「憲法違反ではない」というだけで本来その言葉に続くべき「なぜなら...」がない。これはいつものことで、例えば日本が再軍備を進めているのではないかと危惧(あるいは牽制)するのに対して「丁寧に説明していく」というが、実際にやったことは自分の主張を執拗に繰り返すということをしただけだった。安倍君だけでなく野党の国会での追求というのも、なにか独自の視点や新しい証拠を挙げて矛盾点をつく、というような手法でなく、相手が根負けするまで同じことを問う、ということしかしない。

他の国ではどうなのか知らないけど、日本の政治では「主張」はあっても「説得のための論理」は存在しない。普通これでは平行線で議論にはならない。結局は議論とは別のところ、たとえば経済軍事などの力関係というような見えないところで結論が決まるということになる。

しかし、それはこの本とは別の問題なので話を元に戻す。

この本では「CUDOS(Communalism Universalism Disinterestedness Organized Skepticism)」は古いスタイルで、「PLACE(Proprietary Local Authoritarian Commissioned Expert work)」にとってかわられようとしているという。PLACE型科学というのは私企業で行われる研究開発そのもので、大学でもそういう研究のドライブをされることがあるが、僕は本来両立不能ではないと思っている。

「科学」と「技術」の境界が曖昧になっている、という指摘がある。でも「科学」と「技術」は一体のものである、と僕は思っている(もちろんそれは私企業で研究開発に従事してきたというオフセットがかかっている、というのは間違いないので、割り引いて読んでほしい)。

例えば僕はこう言っていいと思う。「科学」とはその目的存在意義が「理解すること」であり「技術」とは「理解せずに済ますこと」である。惑星はてんでんばらばらに動いてどうなっているのかわからなかったが、実は簡単な法則に従っているということをひとが「理解した」のはニュートンのおかげである。そうやって自分の「わかる領域」を広げていく作業が科学である。

一方技術は、例えば今の中学生が使い倒しているスマホの、デジタル変調暗号化液晶イメージャOSなどの動作原理をほぼまったく理解していないにもかかわらず、彼らは長時間依存するほど使いこなしている。理解していなくても使えるのは「技術」のおかげであり、それが技術の目的であり存在意義である。

では、「科学」と「技術」はまったくうらはらなものか、というとそうではない。人間が理解できる複雑さには限界があって、簡単なものでないと理解できない。例えば複素関数論ではたくさんの定理を重ねて精緻な論理が張られているが、最初の方の定理は忘れてしまってもいい。僕なんか仕事のために複素関数を有用に使っていて、さて例えば留数定理の証明は、と訊かれると即答できない。証明済みの定理は「わかったこと」にしないと、いちいち証明に戻っていたのでは理解が進まない。定理は「わかったこと」にしてそれを踏み台にするためのものであると言える。

そして「技術」はいうまでもなく誰かが「理解したこと」の上に立って他の人が理解していなくても使えるようにすることである。つまり留数定理はその証明を知らなくてもそれを「使うことができる」。その意味で「科学」と「技術」は全く同じ構造を持っている。その差は「科学」や「技術」を使う側にある。もちろんスマホを使う中学生が留数定理を何に使えるか、というとそんなものはないんだけど、もののたとえとしてである。

つまり僕はどうもこの本で「科学批判」と言っているのは「技術批判」ではないか、と思える。「科学批判」が「知る」ことに対する批判では意味がない(知らないことへの批判はありえないし、知ってしまったことを「知らなければよかった」という批判も無意味である)。知ろうとする、あるいは知らないで済まそうとする姿勢や、知ってしまったことをどう使うかというこころに批判の対象があるのではないか。「公益性」という言葉がこの本にたくさん出てくるが、本来は知り得たことを共有する、という意味だった。それを字面から「役に立つ」という意味にすり替えているように思える。すべての立場の人間、さらに今いる人間だけでなくこれから生まれてくる人間すべてに「有益」あるいは「役に立つ」技術はあり得ないだろう。立場や時代が違えば不利益をもたらす場合もあるだろう。兵器を成り立たせている技術はその典型だし、また、原発はわかりやすい身近な例だろう。

原爆の原理である質量とエネルギーの等価性を知ることそのものは「役に立つ」ことはないし、また知らない人が不利益を被ることもないが、原爆は多くの人に「不利益」と、一部の人に「利益」をもたらした。ある技術のもたらす「利益」と「不利益」は正当に評価できなければならない。百年前は「不利益」と言ってもたかがしれていたが、最近は不利益を被る人が何万人、極端な場合その人たちが皆命を落とす、なんていう技術がいっぱい現れてきた。そういうところにこそ批判が必要なのではないか。それは「科学」や「技術」そのものの範囲とは違った見方や立ち位置が必要ではないか、と僕は思う。その意味で著者が
しかし科学者は科学そのものではなく、知の対象が超脱的である分、普通人よりもさらに一層、実存的自己と超脱的知を体現する自己との間に引き裂かれたままの状態は強くなるだろう。だが、自分が「引き裂かれている」と意識する分、その人には実存者の顔が強く残るままになる。.....安心立命などない。だが、それが正常だと私は言っているのである。
と書いているが、間違っていると思う。詳細は本を読んでもらわないとわからないだろうけど、それは「科学批判」「技術批判」を科学者自身が行え、と言っていることに等しいし、それでは科学者は「やってらんねぇ」と言うに違いない。

この本の別のところで宇宙論の大家の佐藤勝彦の啓蒙的講義を聴いて「...その種の理論を体現できる佐藤のような人に対して、私は深い尊敬心を抱く。しかし、それは、ちょうど卓越した輪島塗の漆器を作り上げる職人や、優れた陶工....などに敬意を払うのと同じことなのである」としているが、佐藤勝彦の理論は「原理的には」という限定付きではあるけど、万人に理解可能である。誰にも真似のできない漆器の職人とはまったく違っている。それをごっちゃにするから、科学者が「超脱的知の体現者」なんていうことになるのではないか。

科学者も豆腐屋や提灯屋や大店のご隠居となにも変わらない。科学者だけが普通の人と違った重大な責任を負っているなんてことはないし、してはいけない。原爆の存在、その投下を開発した科学者の責任にするのは簡単だけど、それでは結局科学者が他の人たちの防波堤になれと言っているだけである。そうすることで科学者を裁くことはできても、原爆がなくなることはないし、今後さらにおぞましい技術が開発されてしまう歯止めにはまったくならない。結局はすべての人が平等に「科学批判」「技術批判」の責任を負うべきだと僕は思う。

この本に言及があるが、僕はフッサールの「数学が生活世界を隠蔽する」なんていうのは全く逆の本末転倒だと思っている。この数百年でどうやら宇宙全体は数学という言葉で語られているらしいことがわかってきた、というより宇宙の成り立ちを人が真似たのが数学である。惑星はそれぞれ好き勝手てんでんばらばらにさまよっていてもよかったのに、そうなってはいなくて、惑星の動きは数学の言葉で簡単に記述できるということがわかった。

もちろんそれを知らずにいることもできたけど知ってしまった。それは人間固有の文化である。人間は宇宙の一部であり、その数学は僕らがひとつふたつ...と順に数えるというまったく日常的な動作を基礎にしていることからわかるように、数学を無視した生活世界があるというほうが幻想である。むしろ数学あるいは物理学によって得られた認識あるいは限界の上に、どう生活世界を深いものにしていくか議論するのが哲学者の役目ではないか、と僕は思う。僕にはフッサールの主張は「宇宙は魔法を使える小人さんが動かしているので数学は無視しよう」と言っているのと変わりないと思える。それはつまり「科学の危機」ではなくて「批判の危機」だろう。



まとまりなくだらだら書くのはよくないので、なんらかの形で書き直したいと思うけど、あとひとつだけ、国の科学政策を批判して「知識生産のためには、....脱中央集権的なものの方が結局は適切なのだ」と著者は書いている。僕も全くその通りだと思う。

大学への交付金助成金の配分や、JSTのA-STEPに代表される公募型の助成金など、金の行き先は結局は密室で役人が決定している。しかもそれが何に基づいているかといえば、研究者が金をせしめようとしてああでもないこうでもないとしたためた作文だけを評価しているわけである。そのプロセスでは真の研究実態が反映されているかどうかは作文した本人にしかわからない。

「科学」の研究内容を取捨選択する権利を国や政府、行政が有するというのは思い違いである。なぜならその能力と機能を持っていないからである。もしある知識ある技術が国民に有用だと国が考えるなら、本当かどうかもわからない作文を眺めるのではなくて、オープンな場を設けて議論の活性化を進めるべきである、と僕は思う。例えば学会を主導すればいい。その学会の参加者の投票で研究費を配分したり、実験のための共有のファシリティを作ったりすればいい。

電源構成比率を、何年後に原発何%なんて鉛筆ナメナメしている暇と金があったら、再生エネルギー開発のための学会を国が立ち上げればいい。根拠薄弱な技術予測をするよりも、オープンな議論の中で我々はこうすべきだ、我々のあるべき姿はこうだ、という目標を具体化していけばいい。その方がずっと建設的だし、安倍君のようなやり方ではなく議論を尽くす場にこそ正当な批判が醸成されると僕は思う。そしてそういうやり方が数百年かかって作り上げてきた科学のシステムだった。

しかし、ただの年寄りの技術屋風情が専門家の偉い先生の本に「間違ってると思う」などと書くのはおこがましいもほどがある。でもそれこそが批判精神だと思っているので、著者の先生も歓迎してくれるだろう。
ま、普通はスルーだろうけど....
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

こんどはドイツOS XのOpenCL - その10 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。