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Eテレ「クラシック音楽館」ヤルヴィ・ゲルネの「亡き子」 [クラシック]

ついさっきEテレの「クラシック音楽館」でパーヴォ・ヤルヴィがN響を振ってマチアス・ゲルネのバリトンでマーラーの「亡き子をしのぶ歌」を聴いた。ヤルヴィは全世界のオーケストラを振っていてネット配信では盛んに流れている(よその国では音質は別にして実況を太っ腹にタダで流すところがたくさんある)ので、生を知らなくても聞く機会がやけに多い....

ゲルネは初来日で「冬の旅」を聴いてから女房と二人でお気に入りのリート歌いになって日本に来るたびに聴きに行ってる。すごく上手くなっていつの間にか世界的にもトップレベルのバリトン歌手という評判になってる。

番組では演奏の前にゲルネのインタビューがあって、そこで彼は「亡き子」は第2曲が中心で、それはなぜかというと死んだ子供の言葉が現れるからだ、というような話をしていた。演奏ではまったく隙のない完璧と言っていい歌唱で、子供を失った父親の嘆きと後悔と諦めの中の安寧を語っていた。

でも僕はそれは少なくともマーラーの意図ではない、と考えていることはずっと前にも書いた。言葉に書かれたものは、確かに悲痛だけど言ってしまえば凡庸で、ねちねちとした繰り言をただ繰り返しているだけである。ゲルネ・ヤルヴィの解釈では言葉をその通りに表現しているようにしか思えない。

第2曲の子供の言葉は父親の妄想である。それがこの曲の中心ではない。ただ繰り言を反芻する父親に対して、オーケストラこそが子供のいる世界である彼岸を表していて、それが父親の嘆きを超えて雄弁でなければならない。つまりオーケストラが歌の伴奏であってはならない。マーラーはそういう言葉を残していないけど、僕にはそうだとしか考えられない。

だからゲルネと違って、言葉だけたどると前置きのような第1曲が実は重要でこの曲集の主題そのものだと僕には思える。太陽はただ父親の被った不幸との対比ではなく、父親の現在生きている世界の象徴であって、そこではすべてに形があり名前がある。子供はもうそこにはいないので父親は嘆き悲しむけど、マーラーはいやそうではない、子供は形のない名前も付いていないまったく違う世界に行ったのだ、父親はそれに気がつかないのだ、と言っているのだと僕は思う。

そういう解釈に基づいた演奏というのを聞いたことはないので、僕の勝手な思い込みかもしれないけど、このゲルネ・ヤルヴィの演奏では、なんだか退屈な歌詞に当たり前な曲をつけた音楽を、完璧な演奏でなんとか聴けるようにしました、というような感じがしてしまう。僕はひねくれているんだろうか。
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