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鷺とり [日常のあれやこれや]

たまたまこんなのを見た。計算と鍛錬の上とはいえ、最後にかすみ網のようなものに飛び込むだけの着地シーンは、とても正気の沙汰とは思えない。僕はこれを見て落語の「鷺とり」を思い出してしまった。鷺を捕まえに行った男が逆に鷺に天王寺(江戸落語では違うお寺)の五重の塔の九輪まで運ばれてしまう。出家僧が大布団を持ち出して「これへとへすくふてやる(これへ跳べ、救うてやる)」。

江戸落語ではトランポリンのように九輪に戻ってしまう、というオチが多いけど、上方落語では布団の真ん中へ鷺取り男が勢いよく飛び込んだせいで、大布団の四隅を持っていた坊主がお互い頭をぶつけ合って「ひとり助かって四人死んだ」というオチにする噺家が多い。

米朝さんは生前、「上方落語は理屈臭い」とよく言っていたらしい。例えば「蛇含草」と「そば清」の違いを、人間が溶けたら羽織だけではなく着ていたもの全部が残らないとおかしい、というので、上方の「蛇含草」では真夏の話にして、暑いので甚平だけを着た男が祝い事の餅を食う話にしている、真夏に餅の不自然さよりも、人間が溶けたあと「餅が甚平着て座っとりました」というオチの、そばではなく餅の白さの視覚的印象と、甚平だけが残っているという論理的整合性の方を上方では優先している、と米朝さんが話しているのをどこかで聞いた。

また、江戸落語の「長屋の花見」では大家さんがなんとなく店子を誘うことで始まるが、上方の「貧乏花見」では朝雨が降って仕事に行きそびれたあと晴れたので花見にでも、ということになっていて、酒なし持ち寄りの必然性を強調している、と別のところで米朝さんが語っているのも聞いたことがある。そんなどうでもいいところまで「理屈臭い」というわけである。

おそらくは江戸落語ははやくに座敷に上がったので、少人数相手の屋内では憚られることを避けたのと、上方にはない江戸の美意識が反映した結果であろうと思うけど、「鷺とり」のオチは上方の方が物理的に納得しやすいように僕には思える。誰か物理演算で検証してくれないかな。
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