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井上道義のショスタコーヴィチの評価 [クラシック]

僕はNHKでやったショスタコーヴィチの交響曲12番を井上道義が振ったのを聴いて、11番のほうを聴きたかったと思った。大阪ではそれをやってくれたらしい。その評が朝日新聞に上がっていた(ログインが必要)。僕はその演奏を聴いていないのでどうだったのかはよくわからない。しかし、その評論では演奏どうのこうのよりも、暗にではあるが曲目が悪い、と言いたかったようである。

ベートーベンの交響曲のように主題を、全知全能を尽くして展開するのとは違う。チェーホフの芝居やチャイコフスキーのオペラに出てくる際限ないカードゲーム。
たった数種類のカードが執拗(しつよう)にめぐる。図柄は民衆の嘆き、怒り、革命指導者の号令、決起と騒乱など。展開なき反復。その要領で、長大な交響曲ができる。

ついこないだ説明したように(その1その2)僕は全くそう思わない。「展開なき反復」とはよく言ったもので、引用された革命歌はほどんど展開されていないのはその通り。しかしそれ以外はそうでないことはすでに説明した。

朝日の評者は
そういう音楽の楽しみ方は、知的な読解とは違ってくる。映画音楽的、バレエ音楽的といってもよい。遊戯に耽(ふけ)り、大河にのまれて時を忘れる。

という。僕は少なくとも交響曲11番では非常に知的で高度な音楽言語が駆使されていると考えていることはすでに書いた。音楽評論家が高度な音楽言語を理解しようとしないで誰がそれを言語化(ことばとしての)できるのか。

僕としては評者である片山杜秀がもっと虚心にショスターコヴィチの音楽を聴くべきだとは思うが、はっきり言って年寄りがどう思おうがどうでもいい。若い人がこういう頭の固い年寄りの言うことはそれはそれとして鵜呑みにせずに、自分でショスタコーヴィチの音楽を聴いてもらってどう思うかを自身で考えてもらいたい、とつくづく思う。数百年間いわゆるクラシック音楽というものはそうやって発展してきたのである。

だから、若者よ、ショスタコーヴィチを聴け。あなたたちの苦悩の一部はそこに表現されている。それを理解するためにはワーグナーやマーラーを聴く必要があるかもしれないが、そう感じるならそれを聴け。それを聴いてわからなければモーツァルト、ベートーヴェンを聴け。その音楽言語(言葉によらない純粋な音)はそういう作曲家たちの積み重ねで高度化されてきた。

「可愛いあの子に、僕は首ったけ」が音楽の全てなら僕の言うことはない。それ以上の表現が音楽にはあると僕は思っているし今の若者にはそれが必要だと思っている。そしてそれはクラシックだけではなくジャズにもロックにもそれぞれ違った表現が存在している。「言葉では表せないその次」を知りたいならそう言う音楽を聴け、若者よ。そうやって音楽は、芸術は発展するのである。
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