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Eテレ「認知症新時代」を見た [日常のあれやこれや]

今週は工場に出張。宿にしている会社借り上げのアパート(ホテルに比べて必ずしも安上がりではないと主張してるんだけど定量的な評価はされず現状維持状態のまま)はネットが来ていないので、そこでは普段見ないテレビぐらいしか下界との接点はない。昨夜部屋に戻るとEテレで「認知症新時代」という番組をやってて、冒頭以外最後まで見た。

僕も、自分ではまだ認知症と診断されるほどではないとは思うけど、歳のせいでいろんなところで認知機能の劣化の自覚がある。女房に言わせると歳のせいというのは言い訳で、ずっと前からだということになるが、もしそうなら歳のせいでさらに劣化が進んでいるということになる。

認知症に限らず人間のあらゆる病気はすべて程度の問題だと僕は思っているので、健常者が或る日突然認知症になって「ああ今、俺は認知症になった」と感じるわけではない。そうではなくて後から考えたらどこかで一線を超えていた、と周りが認識する、あるいは診断がくだることで人は認知症になるので、当事者本人が自覚することは難しい。いや、言い訳してるわけではないけど、いやまあ、ちょっとしてるけど、ちょうど事象の地平線を超える人がどこで超えたのか自覚はないのに、外から見る人からは地平線を超えた以降の様子はまったくわからなくなるのと似ていると言う気がする。

この番組の中で印象深かったのは認知症をカミングアウトして、認知症を患った本人の権利を主張しているクリスティーン・ブライデン某と言う人。この人は40歳半ばで認知症と診断されたらしいけど、もともと学者でいかにも強靭な思考の訓練を十分に積んで来た人だということがわかる。論理的な思考は認知症には妨げられない、という実例だと思うと僕にとっては心強いし、励まされる。進化論的に比較的新しい脳の部分は認知症の影響を受けない、ということなんだろうか。原因によるかもしれないけど。

しかしもちろん論理的な思考力によって認知症が克服できるわけではないし、失った機能を代替することはできない。しかし論理的思考は普遍性があってそれが健常者との接点になり得る。それによって当事者の状況を健常者に具体的に伝えることができる。ようするに痛い痒いこそばゆいは本人にしかわからないけど、極端な話たとえば数学なら他の誰にでも(少なくとも原理的には)理解できる。これは大きな希望である。

ところが残念ながら件の彼女のように強力な論理的思考の習慣は不断の訓練によってしか身に付けることができないし、全ての人がその訓練を経てくるわけではない。その意味で彼女は特殊な例だと言えるかもしれない。逆に強い思考力を身につけなかった人は健常者との接点の一つを初めから失ってしまうと言うことでもある。たとえば「オバマ憎くけりゃ袈裟まで憎い」と言った非論理的な言動をする人が認知症になってしまうと、彼は健常者から理解を得る手がかりを一つなくすことになる。

記憶力や判断力といった色々な認知機能は進化の過程で生物が獲得してきた能力である。さらに論理的思考力は進化の末に人間だけが手にした特殊能力だということができる。生物は得た能力を最大限に利用して生き延びようとする存在であって、人間は偉そうにしてるけど他の地球上の生物と変わりない進化の産物だから、個体としても手にした能力を最大限に利用することが生物として正しい生き方である。

ということで僕も今のうちに訓練を積んで来たるべき将来に備えようと思う。もう遅いかもしれないけど。
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