9月23日横浜みなとみらいホールでの読響定期 [クラシック]
この三連休もずっと仕事用のコードをシコシコ書いて過ごす予定だったんだけど、女房お気に入りのアンデルシェフスキとカンブルランが今日の昼、横浜みなとみらいホールでやるのを今朝知った。女房も昼のコンサートはノーマークだったらしい。当日券が残っていると言うので二人で行ってきた。
不意打ちみたいに面白かった。女房が気にいるのも良くわかる...
モーツァルトの「後宮からの誘拐」序曲を軽くやったあと、アンデルシェフスキのピアノでモーツァルトのコンチェルト24番(ハ短調のやつ)。
前から思ってるんだけど、どうもこのホールは音が上に抜ける感じがする。小さな音だと遠くで丸まってるように聴こえてしまう。アンデルシェフスキはあまり極端なことはせずに、淡々と着実に進める。この人の音はすごくレガートに聴こえたけど、この人の特徴なのか、ホールの音響のせいなのかはよくわからない。
このコンチェルトは、モーツァルトにしては長くて、半音階をたくさん含んだ特徴的なテーマで始まって、何となく似てるけどやっぱり違ってると言う感じの要素がいろんなところに埋まった複雑な曲だと僕は思ってるんだけど、アンデルシェフスキはことさらにその複雑さを掘り下げてごちゃごちゃさせることはなく、素直にあるがままに弾いてる、と言う感じ。もちろんこう言うのもアリだしカンブルランのスタイルにもあってると思うけど、たっぷり聴いた、という感じはあまりしない。アンデルシェフスキは一度ソロをじっくり聴いてみたい。
休憩の後はブルックナーの4番。この曲は版がいくつかあって、それぞれかなり違っている(特に第1稿は他とは同じテーマを使った別の曲みたいに違う)。いちばんよく演奏されるのはハース版てやつだろうけど、今日のは「コーストヴェット版」とある。全然知らない、と思ってたら2004年にできたものらしい。どんな根拠があるにせよ、作曲者本人はもちろん関係者もみんな死に絶えてるのに、新しい版を作る意図が僕には理解できない。まあ、聴けばわかるだろ、と思った。
1楽章2楽章はダイナミクスやテクスチャのディテールの違ってるところがあったような気もしたけど、聞き慣れたハース版との決定的な違いがわからなかった。こんなもん、学者しか喜ばんトリビアリズムじゃ、と思いながら聴いてた。スケルツォも同じに聴こえたけど後ろの方でフォルテシモがスパッと切れて休符のあとピアニシモのフレーズが続くところがあった。あ、なんか省略したな、と感じた。
フィナーレはよくわからない。もともとブルックナーのフィナーレってどれも大声で大仰な言葉を使うんだけど、どこか具体性に欠けて全体として何が言いたいのかよくわからない、と僕は思っていて頭に残りにくい。でも妙に短かったように思った。
結局、ちょっと短縮されて聴きやすいところがこの版の新しさなのか。昔の指揮者が作曲者のあずかり知らぬところで好き勝手にカットしてたのを権威づけしただけじゃんかよ、と思った。まあそれはどうでもよくて、そんなことよりも読響の演奏は例によって音響的に美しかった。毎回思うんだけど、特に金管の高い制御性は素晴らしい。
そして何よりも今日はホルン主席が特に良かった。この曲はホルンがヘボだとそれだけでぶち壊しになってしまって、他がどれだけ良くても終わるとがっかりしてしまう。今日のは変な音を出さないのはもちろん、ホルン4人で合わせたフォルテシモでの迫力、金管全員でのコラールの密集した分厚い音響、そしてなによりも木管とのバランス(木管は音量を抑えすぎないようにしていたのか)のとれたホルン主席の吹くピアニシモに曖昧なところがなくて、オーケストラのカッコよさが十分に現れた、いかにも「スカッとする」演奏だった。
第1楽章を聴いていて、中学の頃この曲のレコードを買って、なんてカッコいいんだろう、と思いながら何度も聴いたことを思い出した。でもやっぱり録音よりはナマのほうがずっといい。ちかごろ若い人向けのオーケストラコンサートといえばアニソンやスターウォーズばっかりだけど、こういうのをみっちりやればこっち側にコロぶ若者も出るのではないか、と思うんだけど。
モーツァルトの「後宮からの誘拐」序曲を軽くやったあと、アンデルシェフスキのピアノでモーツァルトのコンチェルト24番(ハ短調のやつ)。
前から思ってるんだけど、どうもこのホールは音が上に抜ける感じがする。小さな音だと遠くで丸まってるように聴こえてしまう。アンデルシェフスキはあまり極端なことはせずに、淡々と着実に進める。この人の音はすごくレガートに聴こえたけど、この人の特徴なのか、ホールの音響のせいなのかはよくわからない。
このコンチェルトは、モーツァルトにしては長くて、半音階をたくさん含んだ特徴的なテーマで始まって、何となく似てるけどやっぱり違ってると言う感じの要素がいろんなところに埋まった複雑な曲だと僕は思ってるんだけど、アンデルシェフスキはことさらにその複雑さを掘り下げてごちゃごちゃさせることはなく、素直にあるがままに弾いてる、と言う感じ。もちろんこう言うのもアリだしカンブルランのスタイルにもあってると思うけど、たっぷり聴いた、という感じはあまりしない。アンデルシェフスキは一度ソロをじっくり聴いてみたい。
休憩の後はブルックナーの4番。この曲は版がいくつかあって、それぞれかなり違っている(特に第1稿は他とは同じテーマを使った別の曲みたいに違う)。いちばんよく演奏されるのはハース版てやつだろうけど、今日のは「コーストヴェット版」とある。全然知らない、と思ってたら2004年にできたものらしい。どんな根拠があるにせよ、作曲者本人はもちろん関係者もみんな死に絶えてるのに、新しい版を作る意図が僕には理解できない。まあ、聴けばわかるだろ、と思った。
1楽章2楽章はダイナミクスやテクスチャのディテールの違ってるところがあったような気もしたけど、聞き慣れたハース版との決定的な違いがわからなかった。こんなもん、学者しか喜ばんトリビアリズムじゃ、と思いながら聴いてた。スケルツォも同じに聴こえたけど後ろの方でフォルテシモがスパッと切れて休符のあとピアニシモのフレーズが続くところがあった。あ、なんか省略したな、と感じた。
フィナーレはよくわからない。もともとブルックナーのフィナーレってどれも大声で大仰な言葉を使うんだけど、どこか具体性に欠けて全体として何が言いたいのかよくわからない、と僕は思っていて頭に残りにくい。でも妙に短かったように思った。
結局、ちょっと短縮されて聴きやすいところがこの版の新しさなのか。昔の指揮者が作曲者のあずかり知らぬところで好き勝手にカットしてたのを権威づけしただけじゃんかよ、と思った。まあそれはどうでもよくて、そんなことよりも読響の演奏は例によって音響的に美しかった。毎回思うんだけど、特に金管の高い制御性は素晴らしい。
そして何よりも今日はホルン主席が特に良かった。この曲はホルンがヘボだとそれだけでぶち壊しになってしまって、他がどれだけ良くても終わるとがっかりしてしまう。今日のは変な音を出さないのはもちろん、ホルン4人で合わせたフォルテシモでの迫力、金管全員でのコラールの密集した分厚い音響、そしてなによりも木管とのバランス(木管は音量を抑えすぎないようにしていたのか)のとれたホルン主席の吹くピアニシモに曖昧なところがなくて、オーケストラのカッコよさが十分に現れた、いかにも「スカッとする」演奏だった。
第1楽章を聴いていて、中学の頃この曲のレコードを買って、なんてカッコいいんだろう、と思いながら何度も聴いたことを思い出した。でもやっぱり録音よりはナマのほうがずっといい。ちかごろ若い人向けのオーケストラコンサートといえばアニソンやスターウォーズばっかりだけど、こういうのをみっちりやればこっち側にコロぶ若者も出るのではないか、と思うんだけど。
2018-09-23 21:30
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