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YouTubeで聴くショスタコーヴィチ その4「森の歌」続き [クラシック]

前回はショスタコーヴィチがジダーノフ批判を受けたあと、「森の歌」を作曲するに至ったエピソードを千葉潤 著「ショスタコーヴィチ」http://www.shostakovich.ruから拾ってまとめてみた。「森の歌」は彼に対する「御用作曲家」のイメージを決定付けた曲で、「ベルリン陥落」をはじめとするその前後の映画音楽と同列に扱われることが多い。

しかし僕は、それはちょっと違う、と思っている。今日はその理由となる具体的な特徴を音符を交えてあげることにする....

「森の歌」は7楽章からなる。第1曲「勝利(戦争が終わったとき)」の開始部分の音符を拾ってみると
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弦のピチカートとホルンの白玉和音に乗って3本のクラリネットがAndanteの主題を吹く(ゴチャゴチャするので上の楽譜には2本しか描いていない)。ハ長調主和音の分散和音の形での2小節に、赤枠1.と書いた音階的なフレーズが出て、それに続いて歌のフレーズらしい赤枠2.が続く。そして第7小節で短3度上の変ホ長調(E♭)へ前触れなく直接転調する(五線の上にコードネームを書いてある。コードネームは原曲にはない)。この転調がごく普通の近親調ではなく、かといってブルックナーに出てくるような遠い調へガコンとワープするのでもない、微妙な位置付けにある。そこから数小節かけてもとのハ長調に戻ってくる。ちょうど人目を引くだけの高さの台にジャンプして、すぐじんわりと階段で降りてくるような感じである。

このあと14小節からバスが歌い出す。
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これも3小節をハ長調で歌ったあと(青緑枠の3、後半にはクラリネットで出たばかりの赤枠1.と2.が現れる。1.の音階はバスの歌い出しからの継続性と、バスに細かいフレーズを歌わせないために変形している)やはり変ホ長調に飛んでからじわじわとハ長調に戻ってくる。それを引き継いで男性コーラスが青緑枠4.をハ長調で歌ったあと、今度は(アウフタクト1拍の属和音を置いて)短3度下のイ長調へ転調して、また完全な四度進行(いわゆるカデンツ)を経由してハ長調に戻ってくる。

このように第1曲には変嬰記号3つか4つぶん離れた調へ転調してそこから4度進行でゆっくりハ長調に戻る、という場面が何度もある。この転調が軽い唐突感とともに、ただハ長調が続いているだけに比べて転調の瞬間はより明るく輝かしい感じを引き起こして、そのあとは転調感を伴わないようにハ長調に戻ってくることで、主調を強調して安定感をもたらしている。Più mossoの短い中間部と、この少しだけ唐突な転調を除くと第1曲はほぼハ長調の音響だけでできていて、不協和音の音色も全くなく、歌詞を無視して聴いていると、どっしりと落ち着いた雰囲気が伝わってくる。


第2曲「祖国を森で覆わせよう」は嬰ヘ短調というハ長調から遠い調でスケルツォ風の速いフレーズから始まる。そしてすぐにこんな3拍子の無国籍民族風とでもいうようなメロディが木管に現れて、それがすぐ4拍子になる。
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この後半4拍子のほうはどことなく第1曲の男声合唱のメロディ(上の青緑枠4.)を思わせる。そしてスケルツォに戻るけど、そのときスケルツォのメロディはこの4拍子の最後の部分を圧縮したもののように聴こえる。このあとスケルツォがショスタコーヴィチらしい緊張感を持ったリズムで展開されたあと、さっきの3拍子のメロディが女性合唱で歌われる。

このメロディがなんとなく民族風に聴こえるのはいわゆる機能和声的ではないせいだろう。先に書いたようにイ長調の主和音Aで始まって後半はF♯mに移行して、またAに戻っていて、四度進行はない。こういうパターンはいろいろな民族の歌にあって特にロシア風というわけではない。コスモポリタンな民族風(矛盾してるか)というような感じで、でもその印象は必ず4拍子のメロディにつながることで第1曲の気分にとって代わってしまう。この民族風のメロディは少し変形しながら繰り返されるが、いつもすぐ4拍子のメロディが上書きするように繋がっている。そして4拍子のメロディのほうは全く変化せず、最後も4拍子のトゥッティで終わる。


第3曲「過去の思い出」ではAdagioのテンポで弦楽による2重付点の重苦しいリズムで始まる。ここでの歌詞はこれまでとちょっと違って、干魃で不作になって苦しめられたことが語られる。ようするに計画が成功すればこういう自然環境が制御できるようになるだろう、ということらしい。本来ならばこういう苦悩を克服して最後には勝利する、というベートーヴェン的な音楽になるんだろうと思うんだけど、ここではどうも「ダレ場」としての機能しか果たしていないように僕には思える。

最初にバスが歌うメロディも苦しみに耐え忍びながら希望を持ち続けるというよりは、民謡によくある「恨み節」の雰囲気に聴こえてしまう。しかもこのバスの歌はどことなくロシア風で、当時のソビエトの人たちには慣れ親しんだメロディかもしれない。いずれにしてもベートーヴェン的というよりはむしろ、不本意だがしかたなく現状を肯定的する保守性のようなものが主題のように聴こえる。中間部はpiù mossoの3拍子になって、ショスタコーヴィチらしい緊張感に満ちたクライマックスを迎えるが、回収されることなく恨み節が戻ってきて、そのうちそれも忘れるようにattaccaで次の曲につながる。


前曲の低音の属音a(イ音)が主音に解決せずにb(変ロ音)につながることで第4曲「ピオネールは木を植える」が始まる。まずトランペットが弱音のソロで
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この2小節目のdes(変イ音)がミソ。低音弦とのやりとりが3回続いたあと少年合唱で
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前半10小節と後半10小節が調だけ変えて(変ロ長調と変ト長調)全く同じ繰り返しだけど、またこれも長三度下への直接転調になっている(子供には歌いにくいだろう)。そしてまたトランペットのソロに戻るけど、このときdes音が変ト長調から無理やり変ロ長調に戻る助けの役割を果たして、その無理やり感を減らしている。

少年合唱はただこの主題を3回全く同じに繰り返すだけなんだけど、それに対するオーケストラは最初のトランペットの伴奏音形をどんどん変奏して、毎回違った対旋律を鳴らす。ワーグナー風、というよりマーラーのオーケストラ伴奏歌曲を思い出す。


伴奏音形が音を増してaccelerandoとcrescendoが同時に書いてあって、そのまま第5曲「スターリングラード市民は前進する」歌詞改定後は「コムソールは前進する」に改題された)になだれ込む。Allegro con brioの速い行進曲風の2拍子で、オーケストラと合唱にはほぼ全曲フォルテとフォルテシモだけが指定されている。合唱に革命歌風のメロディが3つほど出てくるけど、調子はどれもよく似ている。それに対するオーケストラ伴奏は第4曲の伴奏音形が展開されるかっこうになっていて、合唱のメロディが繰り返されるたびに違っている。しかし合唱の曲調がほとんど同じで和声も単純なせいで、伴奏の変化どころか、メロディを区別するのさえ難しいままどんどん通り過ぎていく。

この第5曲は「ベルリン陥落」などの音楽とよく似ていて、明るく勇壮な調子で塗り潰されるだけになっている。ただし、「ベルリン陥落」は聴いていてあきらかに単純な反復記号が置かれているだけに聴こえて伴奏の変化なんかは全くない(楽譜を見ていないのでどう書かれているかはわからないけど)が、こっちは気をつけて聴くとニュアンスが変化していることが辛うじてわかる。しかし結局最後は合唱の白玉和音の連続とフォルテシモのオーケストラトゥッティの、行進曲調にありがちなパターンで終わる。


第6曲「未来の逍遥」は半音階的なイングリッシュホルンのソロで始まる。この出だしはショスタコーヴィチの交響曲を連想させるが、すぐト長調に落ち着いて、弱音のアカペラヴォカリーズの合唱につながっていく。ここでテノールソロが初めて現れて次のような主題を歌う。
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このメロディは第1曲の赤枠1.と2.で示した動機の変形でできているが、こちらは動機断片ではなく、ちゃんと歌のメロディとしてまとまっている。この曲では管楽器はイングリッシュホルンと歌詞に出てくるナイチンゲールを模したと思われるフルートだけで、あとは合唱を支える弦楽の白玉伴奏(いかにも弱音アカペラ合唱の音程がずり下がるのを止めるために入るように聴こえる)があるだけである。

最後も合唱の白玉和音と弦楽の第1曲の最初のフレーズが弱音で鳴る中で、フルートのナイチンゲール(ナイチンゲールは日本にいないのでこんなペンタトニックで鳴くのかどうかは知らない)のフレーズで静かに消えていく。最初のイングリッシュホルンのソロはそのあと二度と出てこなくて、単に第5曲の興奮を落ち着かせてテノールソロにつなげるためだけに存在したことが最後まで聴くとバレてしまう。


第7曲「栄光」はこんなホルンの明るいファンファーレ風のフレーズで始まる。
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これは前曲最後のナイチンゲールの模倣のように聴こえるけど、実際はさらにその元である第1曲のバスの歌い出しのフレーズ(引用譜の青緑枠3.)から来ていて、ナイチンゲールの兄弟のようなものである。ホルンは1小節で終わってすぐ合唱ソプラノが木管とユニゾンで歌い出す。
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このメロディは前曲のテノールソロのメロディの変形で、7拍子の特徴的なリズムを持っているが、これがこのあと90小節近くも続くフーガに発展する。このフーガが実にカッコいい。フーガにありがちな複雑さ分かりにくさは抑えられ、不安定な音色や不協和音はまったくなく、巧妙な転調や倍の音価のテーマとの絡みなどがあって、次々に新しいアイデアが湧き出るようにフーガが展開される。この部分の歌詞では第3曲とは反対に希望が語られて、徐々に楽器を増やしながら音量を増していく。

ちなみに、7拍子などの変拍子はストラビンスキーやバルトークなど、ソ連内で「退廃的な現代音楽」とレッテルを貼られた音楽によく現れる。しかし変拍子はもともとロシアを含めた東欧の民謡などによくあって、むしろストラビンスキーたちはそれを題材として取り込んだにすぎない。しかしショスタコーヴィチのこの7拍子は現代音楽的な匂いはまったくなく、メロディックなせいで民族風であることを強調するかのように聴こえる。

改定前の歌詞で「スターリン」の名前が出てくるあたりで、オーケストラはフーガテーマに、合唱がその対旋律に集約されてクライマックスを迎える。そこへバンダが冒頭のホルンのファンファーレのテーマで割り込んできて、それが3連符を刻むことでフーガの疾走感にブレーキがかかる。Moderato con motoにテンポを落としてバスとテノールのソロが「レーニンが生きていたら」と歌ったあと、さらにAndanteにテンポを落として第1曲がフォルテシモで戻ってくる。ソロの二人や少年合唱も混声合唱に加わるけど、バンダも参加したトゥッティのオーケストラが鳴るせいで、視覚的に歌っていることがわかるだけで、音響の大勢に影響はない。全員参加のフォルテシモの、それこそ割れ鐘のような大音響の中で全曲が終わる。


曲のディテールを上げ出すとついついいろいろ書きたくなって冗長になってしまう。この曲のどこが特別か、という話は次回にする。
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