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ショスタコーヴィチ交響曲第10番について - その4 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第10番について書いてきてこれで4日目になる。昨日1、2、3楽章の簡単な構造分析をした。今日はフィナーレの分析と、それからこの曲に関する僕の考えをまとめて終わりにする。

4.4  フィナーレ

フィナーレは第1楽章と同じソナタ形式にもどるが、構造は極端に複雑である。長くて重苦しい序奏がついている。序奏の主題は大きく4つ
  1. 冒頭低音弦による主題
  2. それに続くオーボエによる引き延ばされたような主題
  3. それに続く3拍を4つに割るフレーズ
  4. さらに続く半音階的な流されるようなフレーズ
である。序奏は3つの部分にわけることができる。4つの序奏主題を提示する部分、変形しながらもう一度繰り返さる確保の部分、主部へのつなぎのための第1主題のほのめかしの部分である。

ほのめかしの5度跳躍のフレーズが引き金になって、テンポがあがることで第1主題が始まる。第1主題は序奏の重苦しさを払いのけるわけではなく、健忘症的に軽い。一方で第2主題はビートを持った舞曲のような主題で、第2楽章の中間部の変形でできている。第2主題のほうは主題そのものが繰り返しでできていて、ビートとあいまってテンポは同じでも第1主題よりずっと重い。それぞれの主題は聴けばわかるので楽譜は示さない。書くのも面倒だし。

そのふたつの主題の間の経過部は序奏冒頭の低音弦主題が変形したものである。テンポが倍以上なのでなかなか気がつかないが、音程関係は全く同じであることが注意すればわかる。図-14と図-15とに見比べられるように書き出してみた(例えばピッコロの方をアウフタクトを除いて4度下げてみれば重なることがわかる)が、特徴的な和声進行に気がつけばテンポが違っても聴いた方がわかりやすい。
0720fig14.png
0720fig15.png
これは後の展開部に対するヒントになっている。こういう変形がこのあと多く現れる。

展開部は第1主題が変形した第3主題とでも言えるものが現れるところから始まる。展開部では序奏の部品が組み合わされたものも多く出現するが、テンポの違いに気をとられるとなかなかわからない。「なんかどこかで聴いたような」という印象だけが無意識下に蓄積されるが、なんだったのかを考えているうちに音楽は先に進んでいってしまう。実はなんのことはない序奏のフレーズがすっ飛ぶような速度で繰り返され、展開されているのである。

第2楽章の冒頭音型を何度も繰り返した後D-S-C-Hのトゥッティになだれ込むクライマックスのあとも序奏の低音弦主題とオーボエ主題がテンポを落とさずに弦楽で繰り返され、木管も序奏に現れたフレーズを中間的な速度で続ける。この部分では展開されているのが序奏の素材であることが聴いていて理解されやすい。またこのフレーズは第3楽章中間部で先取りされたものであることもわかる。一方、フィナーレ第1主題は展開用の部品としてではなく、どちらかと言えば速度と気分を支配するものであることがわかる。

聴いていて意識するのは難しいが、なんかの拍子に展開されているのは序奏に出現した主題であることに気がつくと、序奏の長さの意味が理解されることになる。序奏の存在意義は展開の材料を用意することでもあった。序奏が展開に大きく寄与すると言う構造は第1楽章とよく似ている。共通の主題を全く持たない第1楽章とフィナーレが全体構造の類似という共通点を通じて結びつくことになる。

5  僕なりの結論

長々と書いてきたが、本当にこの曲の構造を分析したいならこんな程度では済まされない。しかしこの曲がいかにソナタ形式の伝統に従っているかというのはこれでもわかる。この曲が作曲された1953年頃西側では、すでにベルクやウェーベルン、バルトークらは亡くなり次の世代のブーレーズ、クセナキス、シュトックハウゼンらが活動を開始している。前年の52年にはケージが有名な「4分33秒」を初演(?)している。また、マイルス・デヴィスはまもなくコルトレーンらをメンバにした最初のクィンテットを結成する。

そんな西側の状況をショスタコーヴィチは知っていたかどうかはわからない。しかしそれまでソヴィエト連邦の広告塔として何度も西ヨーロッパに旅行していて、耳に入ることもあったはずである。ではなぜこんな「古くさい」形式に従った曲を書いたのか、そしてそれによって何を表現したかったのか?僕の考えを以下に書く。

5.1  なぜこのような構造を持たせたのか

1948年の作曲家会議以降党当局の監視は続き、あやつり人形のように西側の国際音楽祭に出席させられたり、作曲家会議後初めての初演だった「24の前奏曲とフーガ」は長くて渋いピアノ独奏曲でありバッハの伝統を受け継ぐつもりだったのにもかかわらずまたしても「形式主義」批判が浴びせられたり、党による反ユダヤ主義キャンペーンが吹き荒れて知人が逮捕されたりということが起こる。ショスタコーヴィチは20年前のプラウダ批判を思い出して震え上がった。

このころ書きためた曲はこれ以外にもいくつかあった。弦楽四重奏はあまり目立たないので発表しても問題ないだろうし、確かにこれまでそうだったが、交響曲や協奏曲、さらに言葉の伴う歌曲やカンタータはプラウダ批判の経験から言えば発表はヤバいと考えるべきだろう。プラウダ批判をかわせたのは交響曲第5番のおかげだった。第5番で彼は古典的な構成力を前面に打ち出した。

今から後知恵で考えればそのおかげだったかどうかは怪しいけど、彼はもう一度その伝で行こうと思ったのだろう。ちょうど素材が揃ってきたところの交響曲を使って瀬踏みをしよう、と考えたのではあるまいか。もしこれが問題なければ例の協奏曲も発表できるだろう、あるいは歌曲も何とかなるかもしれない、などと考えたのではあるまいか。

5.2  何を表現したかったのか

そして、この構造によって彼は何を表現したかったか、ということは大きな問題である。この問題に対して僕には思い込みがある。

前回書いたようにベートーヴェンは緻密な構造で彼の音楽を組み立てた。我々聴き手はみごとに出来上がった構造を聴くのではなく、それによってベートーヴェンの意志の力やその強い推進力、音符ひとつひとつにまで宿る生命力などを聴きとって感動するのである。それが音楽の内容というものである。

その意味で、この第10番は無内容であると言っていい。

指物師としての先輩であるブラームスをもしのぐ緻密で精巧な構造を、ショスタコーヴィチはこの第10番の交響曲で作り上げた。では彼はブラームスのように桐箱の表に細工をすることに意味を見いだしたのか、というとあきらかにそうではない(と、少なくとも僕にはそう思える)。

細工が見事であればその箱の中身はさぞ立派であろう、と人は思うものである。そして細工が見事であればあるほどその中身が空っぽであることが強調されることになるだろう。ショスタコーヴィチは得意の腕をふるって人の目を惑わすのに十分なほどの見事な箱を作った。しかし彼の本当の意図はもちろん箱にもないし、かといって箱を開ければすぐわかるようなところにもない。

ショスタコーヴィチは作曲家連盟会議後の失業中に、つまらない映画音楽をむりやり量産して神経がすり減ってしまった。作曲を続けるモチベーションを維持するためには書きたいものを書くしかない。自分の本当に書きたいものというものがなんなのか、それは書いてしまわない限り自分でもわからないが、それを第5番のときのように正統的な古典性の中に塗り込めてしまうことはできる。そうやって完成させたのがこの交響曲だったのではないか。本心の塗り込め方は第5番のときよりもさらに巧妙になって、ますます他人にわかりにくくなった。

第3楽章の象徴性と執拗な繰り返しや、フィナーレのD-S-C-H連呼には必然性があるとでもいうように聴き手の無意識に忍び込んでくる。しかしその意味は具体的にはまったくわからない。もちろん言葉を伴わないあらゆる音楽はその意味なんてわからないけど、意味不明であることをことさら強調しているように響く。

そして曲全体としての無内容さが意識されたとき(何がいいたいんだこの曲は? 実によくできてるけど何もないじゃないか)初めて、ショスタコーヴィチの書きたかったことが逆説的に聴き手に伝わることになる、と僕には思える。

また、そう考えるとあの空疎な「ベルリン陥落」の音楽とは質的な違いはなく、程度の差なのか、とも思えてくるしまた逆に、あの奥深い音楽的な内容を持つヴァイオリン協奏曲第1番の初演が10番からさらに2年も遅れていることにも理解できる気がしてくる。

まあ、しょせん勝手な深読みではあるんだけど。

6  この曲に関するおまけ

カラヤンはドイツオーストリア音楽以外にロシア音楽も得意としていたが、彼のレパートリーにはショスタコーヴィチの曲はただ1曲しかない。それがこの10番の交響曲である。しかもカラヤンはこの曲をなぜか2回録音している。この曲の古典性の完璧さは彼の心情にマッチしたし、他の交響曲のように悲鳴のような音響が現れないことも彼のレガートなスタイルとよくあった、ということだろう。

しかし、だからこそカラヤンはこの曲を作曲者の立場からは見ていなかったということがわかる。もちろん演奏を聴けばそれはあきらかだけど、ではその演奏は間違っているのか、というとそうではない。音楽の演奏とは不思議なものだ。

ちなみにカラヤンの2度の録音はほとんど区別がつかないぐらいよく似た演奏になっていてなぜ録音し直したのか不思議である。ただ、最初の録音には第1楽章の第2主題再現直前にはまるで編集ミスに気がつかずに放置したかのような9小節のカットが存在する。

もちろんこれが本当はなぜなのか、は僕は知らないけどね。

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