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「聖痕」読了 [読書]

筒井康隆著、新潮文庫。

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とってた新聞に連載されていたのを知っていたけど、ブツ切れに読んだらわからなくなると思ったので毎朝その部分を見ないようにして、単行本になって文庫に降りてくるのをずっと待っていた。
じっくり読んだけど、筒井さんがこれで何を書きたかったのか僕にはわからない....

生まれてすぐの頃から葉月貴夫はその美貌で傍目にも際立っていた。五歳になった貴夫はある日近所の空き地で変質者に襲われ、陰茎と陰嚢を切り取られるという大怪我を負った。彼の傷はやがて回復するが、性的な機能を失ったことは明白だった。彼の家族はそれを隠すため引越しをし、彼自身も周囲に悟られないように注意しながら成長していく。

成長につれ貴夫の美貌はさらに増し、その上に明晰な頭脳を持っていることも明らかになる。またもともと裕福な家庭だったため、良い趣味も身につけ、人格的にも優れた人物に成長していき、彼の周りには家族や友人だけでなく、崇拝者賛美者が蝟集するようになる。ただ、彼には性的な機能がないだけではなく、興味もなく、周りの人たちがときどき示す盲目的な性衝動を理解することができなかった....

多くの男性にとってかなりショッキングな出だしで、もしこの事件が貴夫の思春期以降に起こっていたら、その喪失感に苦しんだだろうと思えるけど、五歳でははじめからなかったことにできるということなのか、事件が彼の精神に回復不能の影を落とすということはなかったようである。

それどころか、自分の理解できないものを否定することもなく、あるがまま受け入れ、まるで聖人のような人格者になる。良い趣味を持ち、鋭い味覚や、絵画の才能を小さいうちからあらわし、優れた頭脳を発揮して東京大学に入学する。そういう人間的な魅力のために愉快でない人物も惹きつけるが、彼はあからさまに拒むことはしない。異質なものも許容し彼なりに理解しようと努力する想像力の持ち主として描かれる。ちなみに、わずかに描写される彼の想像力の高さは、宗教の教祖のような聖人とは違って、人格に深みを与えているように僕には思える。

大学卒業後彼は才能を請われて食品会社に就職するが、そのうち思春期から趣味として研究してきた料理で身を立てることにしてレストランを開業する。後半はそのレストランに家族や友人や賛美者が集まることで物語は進行していく。

東北の震災に貴夫はショックを受け(持ち前の想像力から被災者の心情を慮ることは容易であり、それが彼には耐え難くなる)、車に食材を積んで被災地を回るところが物語のクライマックスになっている。しかし全体としては大事件は起きず、どっちかといえば人生の山谷を淡々と描写することで話は進んでいく。大事件といえば最初の貴夫自身が受けた災難が最も大きな事件だけど、それも最後には受容的に乗り越えられる。

この物語で筒井さんは何を書きたかったんだろう。僕は頻出する古語と左端の柱にその脚注が書かれているのが、いかにも難しい言葉を作り出してそれにわざわざ逐語訳をつけるという筒井さんの創作か、と思ったんだけど、それはどうやら僕が古語を知らなさすぎたせいで、多くは実際に存在する(した)言葉らしい(一方で一目に明らかな造語も存在する。こういうところは筒井さんらしく思えて安心する)。

しかし後ろに行くにつれて注釈はどんどん増えて、文庫版175ページ以降は、すべての見開きの左側に注釈が出現する。最初はいちいち注釈を参照しながら読んでいたんだけど、そのうち文脈や語感から意味が想像できるようになって、ページをめくる前に想像が正しかったかどうかを確認する、というような読み方になった。不思議とわかるもんだなあ、と変な感心をした。

でも、この古語の使用も単なるいろどりで、物語とは何の関係もない。ほんとうに筒井さんは何を書きたかったんだろう。

その古語のおっとりとした典雅な語感も含めて伝わってくるのは、いろいろな面で恵まれた人たちの天国のような生活とその集積としてのそれぞれの人生の描写である。彼らは人格だけでなく裕福さが支えとなって物質的な面でも恵まれた人たちである(趣味の良さや教養やいろいろな技能が極貧の中で育つことは難しい、という事実に対する物語設定上の前提ということだろう)。

貴夫はその中でただ一点を除いてほぼすべての点で日本人の平均像から抜きん出ている(音楽の才能のないのを彼が認識することは途中で描写されていて、彼が必ずしも完璧超人ではないことが語られる。筒井さん自身の音楽に対する造詣の深さを考えるとその人物像も筒井さんの虚構であって、自身の投影でないことがわかる)。その欠落した部分も欠陥ではなく、煩悩を超越した人格の一部となっている。しかし彼でさえもその中で特別な人物ではなく、この天国の住人の一人に過ぎない。

もちろん、登場人物たちは日本でもっとも裕福だったりもっとも頭脳が秀でていたり、というわけではない。しかし登場人物の皆が何をとっても日本人の分布の上位の、少なくとも2σあたりの人ばかりに思えてしまう。

上位2σの裕福さを持っている人がすべて人格者とは限らないし、頭脳に秀でた人がすべて趣味がいいとは限らない。しかしこの登場人物たち、特に主人公の貴夫は美貌知性教養深慮から絵画や料理の才能さらには可処分所得まですべてが2σ以上である。一般的にはそれぞれの特質は無相関なので分布はその直積になる。例えば上位2σの裕福さを持つ人は日本では二百万人いることになって、必ずしも「ごく一部」の「ひと握り」とは言えないけど、それ以外のいろいろな面のすべてで上位2σを確保する人はそうそういない。たった5項目で2σと言っただけで日本にはひとりも存在しなくなってしまう(もちろん「美貌」や「教養」に大小を測る基準はないのでたとえ話でしかないけど)。

僕にはなんとなく筒井さんが理想の日本人像を描きたかったのかな、と思ってしまう。日本人は(あるいは人類は)こうあれかし、と考えているのではないかと。

僕みたいな得意分野でさえσも怪しいような人間からすると、登場人物たちの世界は本当に「天国」みたいに思えるし、僕はこの「天国」の住人じゃないなあ、と妬ましく思ったりもする。「妬ましく」思った時点ですでに彼らの世界に住む資格を失っているわけだけど。

この小説には筒井さんがこれまでやってきたたくさんの文体実験が、あるとことはあからさまにあるところは控えめに盛り込まれているように感じる部分がある。それが異質な感じをもたらさないのは、同じ作者のアイデアだということもあるし、古語をちりばめたこの小説固有の文体が統一感を与えているという面もあるという気がする。

でも読み終わって、そう言った過去のおさらいや理想の登場人物たちから、筒井さんが意識的に集大成を目指そうとしたのではないか、と思ってしまった。僕は子供の頃、多分小学校の高学年で筒井作品を初めて読んで、それから五十年以上筒井さんを読み続けてきた。「聖痕」では筒井さんが自らの退場の準備をしているような気がしてなんだか心配になる。
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