ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その2 [音楽について]
昨日の続きで、第1楽章の残りを聴いていく...
前回書いたように音符の上に書いた数字は12半音を表していて、 こうすると12音のうち抜けていたり重複していたりするのがわかりやすい。
これもショスタコーヴィチの「しかけ」のひとつで、これまでの交響曲や他の作品にもときどき現れた、12音のようだけどなんとなく調性感がある、というやつである。でもこの場合の調性感の原因はほとんど伴奏のせいである(このテーマが伴奏付き単独で現れるとき、その伴奏和音は出てくるたびに微妙に違っている)。
伴奏なしでこれを鳴らしてみるとバルトークっぽい感じがする。最初の2小節はcisを中心にして偶数番目の奇数番目の音符が半音ずつcisから離れていく対称な配列になっているし、後半の2小節は前3音と後3音が反行かつ逆行の関係になって、全体が12音を網羅しながら中心となる音は頑として存在する(前半cis、後半aとe)、そういうシステマチックだけど情緒的なところはバルトークのやり口に思える。まあ、たった4小節なので厳密なことは言えないけど。
(ちなみに、バルトークはショスタコーヴィチの交響曲7番を彼の「管弦楽のための協奏曲」の中で揶揄した、と言われる。バルトークは7番の当時における取り上げられ方が気に入らなかったというのは少なくとも間違いない。しかしショスタコーヴィチが音楽的には近い立ち位置にいたことをバルトークは理解していたのではないか、と僕は思っている。また、ショスタコーヴィチの13番でのバルトークの引用も意趣返しというよりは、良い悪いは別にして受けた影響の大きさを表明しているように僕には聴こえる。)
この曲の第1楽章が「ウィリアム・テルのロシア語表記の最初の3文字とレーニンのイニシャルが共に"ВИЛ"であることから、レーニンがソビエト連邦の指導者であった作曲者の幼年期から青春時代をこの楽章は表しているとする説もある」なんていうのは単に「証言」に惑わされた人のこじつけもいいところで、僕には「んなアホな」としか思えない。
まあ、これを聴いてレーニンの時代を想像できるひとはそうすればいい。またそれなら、そもそも音楽本体を聴く必要はなくて手間が省けるし。
そしてこの言葉尻を捉えるように弦楽が 続いて(これもまたすごい伴奏和音がついてるけど、伴奏だけ鳴らすと完全にハ短調に聴こえる)、これが繰り返される。このあともクライマックスへの橋渡しとしてたびたび現れる。ウィリアム・テルがもう一度繰り返されたあと、第2主題が変形され、第1主題の主動機がトゥッティ(全合奏)で戻ってきて、属調である「ホ長調」の三和音で提示部が終わる(と僕は思っている)。
木琴のあとピッコロが第2主題と提示部のウィリアムテルに続くフレーズ(1-9)を変形させながら続けたあと、ファンファーレの変形をもう一度、そして第1主題主動機のリズムを繰り返す。
190小節目でホルンで展開部頭の三連符のファンファーレと、動きの静かなレガートな木管が重なる。 これもディミニシュトスケールに半音が埋まったもので、衝突したり離れたりするホルンとの絡みのせいで調性があるようなないような感じに響く。
IMSLPで「Prolation canon」として検索すると2件だけ、Birdという現代作曲家の合唱曲があがる。
ショスタコーヴィチのこの部分はそういったような、単純カノンにひねりを効かせる、なんて感じではなく、どんどんごちゃごちゃした感じになって収拾がつかなくなってしまう。そしてテーマの辻褄を合わせてしっくり落とす、ということを諦めてしまって、トランペットに三連符のファンファーレを割り込ませてむりやり終わらせてしまう。
そのごちゃごちゃした収拾のつかなさを面白がって欲しい、とショスタコーヴィチが言っているように思える。だたし、交響曲2番や歌劇「鼻」に出てくるような10声を超える対位法(と言っていいのかわからないけど)とは全然違う。2番のような超多声では聴いていて認識することは不可能で、ただ音の塊が鳴っているようにしか聞こえないけど、15番のこの部分はたかだか3声なので、そう言うガチな感じではなくもっと気楽に聴けて、集中すれば追いかけることができる。
第1主題をフルートによって提示された形のまま、楽器を変えて繰り返しながら音量を増して、頂点でムチ(Frusta)の音が登場する。 木琴と弦楽は第2主題の伴奏和音を圧縮したものになっている。
そして397小節で第1主題主動機がトロンボーン(とチューバ)によるフォルテで、しかも音価が引き延ばされてちゃんともとの「イ長調」で鳴る(ここからコーダだと僕は思っている)。 さらにそのままProlation canonになだれ込む。今度は木管によって、半分の音価(スピードが倍)で、半音高く繰り返されるけど、やっぱり同じように三連符のファンファーレが(前回と同じ調で)割り込んで勢いが収まっていく。
最後にまたウィリアム・テルがクラリネットで(でもやっぱり同じ調で。結局都合5回繰り返されるんだけど全部ホ長調というオリジナルと同じ調でしか出てこない)繰り返されたあと、フルートとピッコロで第1主題主動機が提示部の最後の部分と同じ格好で繰り返して第1楽章を終わる。
ちなみに、提示部の終わりが属調に終止して、全く同じ音形を主調で繰り返して終わる、というのは古いソナタ形式のスタイルそのままで、なんというかこんな隅っこで古典を踏襲するというのが、この曲に対するショスタコーヴィチの姿勢を表しているような気が僕はする。
第1楽章を長々と追いかけてきたけど、晩年のショスタコーヴィチには珍しく、マーラー風に拡大されたソナタ形式みたいな外見を伴って、すごく雑多な、ごちゃごちゃした、何が出てくるかわからないヤミ鍋みたいな、ごった煮のようになっているようにみえる。そのせいで若い頃のショスタコーヴィチのスタイルを思い出させるけど、行き過ぎないようにどこか自制を効かせているという印象も受ける。またそこに、高い集中力を持った知性を感じることができて、全体としては見かけとは裏腹に非常に知的な音楽になっている、と僕は思っている。
3.2 第1楽章第1主題後の経過部
38小節もあるフルートの長いソロのあと、ファゴットが似たような調子だけど、違うメロディを鳴らす。 これもディミニシュトスケールからできていて、このスケールを使ってくるくる転調していくが、わりとすぐにフルート主題の確保にまわっていく。3.3 第2主題とその特徴
ひとしきり主題を展開したあと、あまり飛び跳ねないフレーズが現れて、そのあとトランペットのソロのテーマが出現する。 これは第1楽章の第2主題だと僕は考えている。このテーマは「ぶんちゃぶんちゃ」の伴奏があって調性からそれほど逸脱しているようには聞こえないんだけど、なんか拍子抜けたようなちぐはぐな感じがする。ひとつは伴奏がE→B♭という遠い和音の接続(譜面のコードネームは僕が追加した)になっているのと、トランペットの方をよく聴くと(というか音符を見ると)、伴奏のある4小節に12音全部が1回ずつ含まれていることがわかる。明らかに第1主題との対比が意図されている。前回書いたように音符の上に書いた数字は12半音を表していて、 こうすると12音のうち抜けていたり重複していたりするのがわかりやすい。
これもショスタコーヴィチの「しかけ」のひとつで、これまでの交響曲や他の作品にもときどき現れた、12音のようだけどなんとなく調性感がある、というやつである。でもこの場合の調性感の原因はほとんど伴奏のせいである(このテーマが伴奏付き単独で現れるとき、その伴奏和音は出てくるたびに微妙に違っている)。
伴奏なしでこれを鳴らしてみるとバルトークっぽい感じがする。最初の2小節はcisを中心にして偶数番目の奇数番目の音符が半音ずつcisから離れていく対称な配列になっているし、後半の2小節は前3音と後3音が反行かつ逆行の関係になって、全体が12音を網羅しながら中心となる音は頑として存在する(前半cis、後半aとe)、そういうシステマチックだけど情緒的なところはバルトークのやり口に思える。まあ、たった4小節なので厳密なことは言えないけど。
(ちなみに、バルトークはショスタコーヴィチの交響曲7番を彼の「管弦楽のための協奏曲」の中で揶揄した、と言われる。バルトークは7番の当時における取り上げられ方が気に入らなかったというのは少なくとも間違いない。しかしショスタコーヴィチが音楽的には近い立ち位置にいたことをバルトークは理解していたのではないか、と僕は思っている。また、ショスタコーヴィチの13番でのバルトークの引用も意趣返しというよりは、良い悪いは別にして受けた影響の大きさを表明しているように僕には聴こえる。)
3.4 新しい要素と「ウィリアム・テル」
これが変形なしにトランペットでもう一回繰り返されたあと、弦楽にこんな旋律が現れる。 これも半音階的なんだけど、頭に完全四度の次に増四度の上行がある(g→c→fis)。この第1楽章ではここまで見かけなかった音列である。このテーマの後ろに、第2主題の最後の繰り返し音の言葉尻を捕まえた「てけてんてけてん」というギャロップリズムから、かの有名なロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」に出てくるテーマにつながる。 厳密には最後の部分が微妙に変えられていて、第1主題の主動機になんとなく似るようになっている。この曲の第1楽章が「ウィリアム・テルのロシア語表記の最初の3文字とレーニンのイニシャルが共に"ВИЛ"であることから、レーニンがソビエト連邦の指導者であった作曲者の幼年期から青春時代をこの楽章は表しているとする説もある」なんていうのは単に「証言」に惑わされた人のこじつけもいいところで、僕には「んなアホな」としか思えない。
まあ、これを聴いてレーニンの時代を想像できるひとはそうすればいい。またそれなら、そもそも音楽本体を聴く必要はなくて手間が省けるし。
そしてこの言葉尻を捉えるように弦楽が 続いて(これもまたすごい伴奏和音がついてるけど、伴奏だけ鳴らすと完全にハ短調に聴こえる)、これが繰り返される。このあともクライマックスへの橋渡しとしてたびたび現れる。ウィリアム・テルがもう一度繰り返されたあと、第2主題が変形され、第1主題の主動機がトゥッティ(全合奏)で戻ってきて、属調である「ホ長調」の三和音で提示部が終わる(と僕は思っている)。
3.5 展開部の開始
そして135小節目の小太鼓のロールに引っ張られたトランペットの三連符を含む尻つぼみなファンファーレ から展開部(と僕は思っている)に入る。実はこれがこの曲初めて登場する三連符である。木琴のあとピッコロが第2主題と提示部のウィリアムテルに続くフレーズ(1-9)を変形させながら続けたあと、ファンファーレの変形をもう一度、そして第1主題主動機のリズムを繰り返す。
190小節目でホルンで展開部頭の三連符のファンファーレと、動きの静かなレガートな木管が重なる。 これもディミニシュトスケールに半音が埋まったもので、衝突したり離れたりするホルンとの絡みのせいで調性があるようなないような感じに響く。
3.6 カノン
このあともう一度ウィリアム・テルが完全に同じ形で現れたあと、有名なポリリズムの部分に入る。これは提示部に出てきたヴァイオリンのフレーズ(1-9)がそのまま三声のカノンというかフーガというか、になっている。最初は8分音符で4/4拍子1小節を8つに割って現れるけど、つぎは4分の三連符で6つに、そのつぎは5つに割るリズムになっている。 こういった、カノンの声部のそれぞれが異なる音価のものをProlation canonというらしい。日本語でなんというのかわからないけど、僕がパッと思い浮かぶのは、バッハの平均律1巻8番変ホ短調のフーガの後半部分である。さらに「フーガの技法」には2倍4倍になってるのがあったはず。バッハにはグレゴリオ聖歌由来の単純なメロディに別テーマでフーガとして絡ませたり、そのメロディそのものを使ったりするときに音の長さを倍にしたものを混ぜ込む、というのがあった。今これ、と思い出せないけどいっぱいあったはず。IMSLPで「Prolation canon」として検索すると2件だけ、Birdという現代作曲家の合唱曲があがる。
ショスタコーヴィチのこの部分はそういったような、単純カノンにひねりを効かせる、なんて感じではなく、どんどんごちゃごちゃした感じになって収拾がつかなくなってしまう。そしてテーマの辻褄を合わせてしっくり落とす、ということを諦めてしまって、トランペットに三連符のファンファーレを割り込ませてむりやり終わらせてしまう。
そのごちゃごちゃした収拾のつかなさを面白がって欲しい、とショスタコーヴィチが言っているように思える。だたし、交響曲2番や歌劇「鼻」に出てくるような10声を超える対位法(と言っていいのかわからないけど)とは全然違う。2番のような超多声では聴いていて認識することは不可能で、ただ音の塊が鳴っているようにしか聞こえないけど、15番のこの部分はたかだか3声なので、そう言うガチな感じではなくもっと気楽に聴けて、集中すれば追いかけることができる。
3.7 展開部の締めくくり
このあと主動機(1-1)を繰り返すトゥッティがあって、だんだんディミヌエンドして行った先で低音弦にこんな新しいフレーズが現れる。 これは三連符ファンファーレの伴奏音形で、もう終わりに近づいたところで、今まで全然出てくることのなかったパターンを持ち出すなんてことは普通の作曲家はやらない。そしてこれが力を失って こんなふうにダレた感じに変形してしまう。そしてこれに乗ってソロヴァイオリンに第1主題主動機がもとの「イ長調」で現れて、最初とそっくりなピチカートの合いの手が帰ってくる(合いの手がFの和音になっている)。ここからが再現部である(と僕は思っている)。3.8 再現部からコーダ
再現部はいつも以上に圧縮されて主動機に直接第2主題が接続されて、そのままウィリアム・テルにつながっていく。この接続も(1-14)の伴奏音形によっている。第1主題をフルートによって提示された形のまま、楽器を変えて繰り返しながら音量を増して、頂点でムチ(Frusta)の音が登場する。 木琴と弦楽は第2主題の伴奏和音を圧縮したものになっている。
そして397小節で第1主題主動機がトロンボーン(とチューバ)によるフォルテで、しかも音価が引き延ばされてちゃんともとの「イ長調」で鳴る(ここからコーダだと僕は思っている)。 さらにそのままProlation canonになだれ込む。今度は木管によって、半分の音価(スピードが倍)で、半音高く繰り返されるけど、やっぱり同じように三連符のファンファーレが(前回と同じ調で)割り込んで勢いが収まっていく。
最後にまたウィリアム・テルがクラリネットで(でもやっぱり同じ調で。結局都合5回繰り返されるんだけど全部ホ長調というオリジナルと同じ調でしか出てこない)繰り返されたあと、フルートとピッコロで第1主題主動機が提示部の最後の部分と同じ格好で繰り返して第1楽章を終わる。
ちなみに、提示部の終わりが属調に終止して、全く同じ音形を主調で繰り返して終わる、というのは古いソナタ形式のスタイルそのままで、なんというかこんな隅っこで古典を踏襲するというのが、この曲に対するショスタコーヴィチの姿勢を表しているような気が僕はする。
第1楽章を長々と追いかけてきたけど、晩年のショスタコーヴィチには珍しく、マーラー風に拡大されたソナタ形式みたいな外見を伴って、すごく雑多な、ごちゃごちゃした、何が出てくるかわからないヤミ鍋みたいな、ごった煮のようになっているようにみえる。そのせいで若い頃のショスタコーヴィチのスタイルを思い出させるけど、行き過ぎないようにどこか自制を効かせているという印象も受ける。またそこに、高い集中力を持った知性を感じることができて、全体としては見かけとは裏腹に非常に知的な音楽になっている、と僕は思っている。
2020-02-24 22:28
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