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ふと、思い出したこと [昔話]

仕事上でちょっとストレスのあることが続いていて、このブログも休みがちになってしまっている。時間がないわけではないんだけど、週に5日は在宅勤務で発散の場所がない。いや、出社が発散になるわけではないので在宅勤務とは関係ないな。たまたまそういう状況だっただけ。

ところで、全然関係ない、ふと思い出したもう半世紀以上前のこと....

僕がたぶん小学校3、4年のころ。母が原因不明の病気になった。日が出るころに苦しみ出して、うんうん唸って目を覚ます。すごく胸のあたりが苦しいという。それがなぜかお昼前にはなんともなくなってしまうけど、また次の朝は苦しんで目を覚ます。そのころ僕は弟といっしょに2階の部屋で寝ていて、毎明け方の階下の父や祖母の騒ぎを知らなかったんだけど、朝食時になっても母が苦しそうにうずくまっているのを何度も見た。それが何日も続くので、近所の医者に診てもらったが、医者が診療を始めるころには治ってしまっていて、医者も判断のしようがなかったようである。

そんなことをたぶん2週間ほど続けたので、とうとう父が仕事を休んだ。その朝、僕は父が母を休ませるつもりなんだろうと思って学校に行って、夕方帰ってきたら、父は一日中黙ってずっと母の行動をただ見ていたらしい。そしてその日の夜、父は懐中電灯を持って家の敷地の隅にあった渋柿のなる柿の木の根本を掘り起こして穴を掘り、穴の中にあった土は袋に詰めて、別の土で穴を塞いだあと、きれいにして最後に酒をふりかけていた。父の言うには、柿の木のあるあたりは家の鬼門にあたる、母は飼ってた犬のウンコをそこに埋めていたが、それがいかん、と説明した。

犬の散歩は僕の役目だったんだけど、僕は連れて行ったり行かなかったり、といういいかげんな飼い主だったので、僕が散歩に連れて行かない日は、日が沈むころ、夕飯の支度を始める前に母が代わりに行っていた。僕は散歩途中での犬の粗相を犬がした付近の土に埋めてほったらかしにした(その犬が必ず土の露出したところでしかしなかったので簡単だったけど、今では怒られる)けど、母は律儀に持って帰ってきて、肥やしがわりのつもりでその柿の木の根本に埋めていたらしい。

当時の父は合理主義的な考え方を意識的に自分に課しているように見えるところのある人だった(子供の僕から見てなので違っていたかもしれないけど)ので、迷信じみた自分の行動にいろいろ説明をつけていた。曰く、鬼門は北東の方角にあって、朝日が最初にあたる場所である。そして台所はちょうどその方向に向いた窓があって、溜まった毒素が朝日で温められて立ちのぼって、それを毎日吸い込んでいて体調を崩したのであろう、云々...

僕はその説明を聞いて納得するというよりは、子供心にもなんとなく苦しい説明だな、と思っていた。 ところがなんと不思議なことに、そのあと母の毎朝の苦しみはあっさりなくなってしまって、まるで父の行動が母の病気を治癒したかのようだった。母の「(徳島なまりの関西弁で)今朝はなんともなかったわ」と言って笑っているのを見て素直に喜ぶべきなのに、「んなアホな」を覆された気がして、子供心にものすごく驚いたのを覚えている。



僕は物理系の技術屋として、いわば物理法則を商売道具にしているようなものなので、こういうエピソードには眉に唾をつけるべきなんだろうけど、なんというか、なんとも言えない気分になる。

これをもって「宇宙には科学で説明できないことがある」なんていう気はさらさらない。というよりむしろニュートン以来大成功を収め続けてきた物理学も、現実への適用範囲はまだまだ少ない、つまり「説明できないことだらけ」だと思っている。そもそも工学として役に立ってるものはなんでもかんでもFourier変換ばっかりで、つまりは線形近似という釈迦の手のひらの上での成功でしかない。だいいちこれこそが宇宙の基礎法則だ、と考えている相対論と量子力学がどちらもゲージ対称性を原理としながら、ガチ矛盾してるぐらいだし。

もっと勉強しよ。時間はもう残り少ないけど。


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