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Mehldau疲れで昔のプログレを聴く [昔話]

しばらくMehldauばっかり聴いてたら疲れてきた。やっぱり集中力を要求される。チック・コリアにもそういうところがあるので、どうも僕はそういうのが好きらしい。そういうのからちょっと離れて僕が子供の頃好きだったロックを聴いたらなんだかほっとした。ピンクフロイドを聴くようになったいきさつはちょっと書いた。あの続きの、また昔話....

僕は小学校のころに比べると中学ではちょっと人間らしくなって、少しはクラスの他の生徒と話ぐらいはできるようになった。中学3年間もずっと劣等生だったけど、小学校のころに比べるとすこしはマシになって理科や数学ではテストで人並みの点を取ることもあった。でもわからないところはほったらかしで、自分で進んで勉強するということは全然なかった。宿題は母親から言われない限りして行った覚えはなく、教室の後ろや廊下やいろんなところに立たされた(母親が学校から帰ってきて、同級生のお母さんから「お宅のお子さんはいつ見ても外に立っていて...」と言われて大恥をかいた、と泣いた。実は小学校の頃に比べれば立ってることは減ってたんだけど)。

何度も先生に怒られてはその場をやり過ごすだけで反省することはなかった。今となってはなぜそんなに勉強しなかったのか自分でもよくわからない。小学校の頃からずっと僕はいじめの格好の標的だったけど、中学でもなぜか女の子のグループから徹底的にいじめられて、でもなぜなのか、どうすればいじめられずに済むのかわからなかった。クラスでもかなり浮いた存在だったと今では思うけど、当時の僕にその自覚さえまったくなかった。

ピンクフロイドの「おせっかい」をお小遣いをはたいて買ったのはその中学の3年のときだった。そのころはクラシックのレコードを毎月のように買っていた。当時クラシックのレコードには「千円盤」というのがあって、古くて売れなくなった録音をカップリングを変えたりして千円で売るシリーズをどこのレコード会社も出すようになっていた。LP両面で2時間近く詰め込んだものもあって、コストパフォーマンスだけを目的に僕はたくさん買い漁った(「英雄+悲愴」なんていう超詰め込み盤では、英雄第2楽章の全合奏の上でホルンが吠えたあとのティンパニのところで傷もないのに必ず針が飛んだ。悲愴第1楽章のクラリネットがppppで小さくなって消えていく途中で次のffが小さく聞こえたあとすぐ、もう一度正常な音量で鳴った。溝間隔が狭すぎてレコード1周あとの音が被さってた)。おかげで中学の3年間でそれなりのコレクションになっていた。

「おせっかい」を擦り切れるほど聴いて、レコード屋のロックのコーナーも覗くようになった。次に買ったのが忘れもしないムーディーブルースというバンドの「童夢」だったが、これは実にいわゆる「ジャケ買い」だった。レコード屋の壁に飾られた正方形のジャケットの絵に引き寄せられた。老人の下げた小さな光る石を少年が眼を剥くようににして指差している。この絵のような不思議な絵がついた音楽はどんなだろう、と勝手に想像して買ってしまった。聴いてみると悪くはないんだけど「おせっかい」ほどのめり込むことはなかった。それでも僕の勉強机の前に座った正面にそのジャケットを画鋲で貼って、僕が大学に入るまでずっとそこにあった。

高校に滑り込みで入学した夏、母方の同い年の従兄弟がうちにやってきた。甲子園球場でやるELPというロックバンドのライブに行くという。従兄弟は徳島に住んでいて、日帰りできないので泊まらせてもらうことにしたという。そのとき僕はELPを知らなくて従兄弟に「お前、ELP知らんの?」とか言われた。その夜彼は早くに出かけて、こっちがびっくりするくらい不機嫌になって戻ってきて布団にくるまり、朝早い関西汽船(当時まだ淡路島を通る連絡橋はなく、大阪や神戸から徳島の鳴門を船がバスのように行き来していた)で帰ってしまった。なにがあったのか僕が知ったのはそのあとだった。

でもそのおかげで遅まきながらELPを知った。「展覧会の絵」のジャケットは見覚えがあった。でもそのころすでにラヴェルが編曲したオーケストラ版の原曲のレコードを持っていて、それほどたいした曲じゃないのにそれをさらにロックに編曲したものなんて面白いわけがない、と完全に色目で見ていた。

このころ(1972年)クラシックの千円盤と並んで、ジャズとロック、ポップスは「カットアウト盤」と言ってジャケットの端を切り落として安く売ることがあった。たいていがアメリカ製で、日本盤ならジャケットは見開き、ポリプロピレンかなにかの優しい保護袋にさらに入っていたけど、カットアウト盤のジャケットは厚紙のただの四角い袋でそれに直接(あるいはときどき紙袋)で、その盤質も明らかに悪かった。それでELP版「展覧会の絵」を買った。

ELPの「展覧会の絵」は素晴らしいものだった。幼稚で退屈な(当時の僕はそう思っていた)あの原曲が、緊張感のみなぎる眼を見張るような音楽になっている、と感じて興奮した。「キエフの大門」のレイクのボーカルはゾクゾクするほど盛り上がって聴こえた。オマケの「くるみ割り人形」のマーチともども原曲よりええわ、と思った。少なくとも当時の僕にはそう思えた。そして、もうあと何ヶ月か早く知って従兄弟と聴きにいけばよかった、と悔しさに地団駄を踏んだ。

ELPは遡ってカットアウト盤を買った。そのころ同時にこちらはたまたま正規の日本盤でYES「危機」を手に入れた。これにも完全にハマってしまった。音の多いきらびやかな音響は、見開きになったジャケットの内側にあるテーブルマウンテンの頂上全部が湖になったようなあり得ない絵の印象と一緒になって、いつもぼんやりとしていた僕の頭の中をすみずみまで掃除して回ってくれたような気がした。

発表されてすぐレコードを買うということは少なくて、どの順に手に入れたかもうよくわからなくなっているけど、「Led Zeppelin IV」の特に「天国への階段」、ELPの「Tarkus」「Trilogy」、そしてピンク・フロイドの「狂気(The Dark Side of the Moon)」なんかにずぶずぶとハマって行った。

そして高校3年にマイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」を知ってこれも繰り返し聴いた。あとになって「エクソシスト」のテーマに使われていることを知った。がっかりするといやだったので映画は見なかった(今でも見てない)。そのあとELPの「恐怖の頭脳改革(ひどい日本語タイトル)」でまたこれを毎日毎日1回ずつ聴いた。ELPは僕の中でロックの頂点王者ラスボスになった。

高校でもクラシックの趣味は続いていた。高校生の間中千円盤を買い集めていた。そのころは2歳年下の弟もクラシック音楽に目覚めてレコードを買うようになったので、二人分のコレクションが集まって行った。弟と二人で岩城宏之さんのコンサートに行ってストラビンスキーの「春の祭典」でぶっ飛ぶ、という経験もした。

再生装置、いわゆるステレオは父親が買い揃えた古いコンポーネントで、僕が小学校低学年のころ78回転のレコードを一気に捨てるということをしたあと、父親は普通のLPをぽつぽつと買っていた。その中にはけっこうジャズが含まれていた。たまに聴くことがあったけど、小さいころの僕は全然理解できなかった。でも中学から高校にかけて父親がほったらかしにしてあるジャズのレコードを鳴らしてみると、古いピーターソンやモンクにクラシックやロックと違った面白さがあることがちょっとわかった。そのあとのロックを聴きあさっていた高校のころマイルスやコルトレーンを知るんだけど、それはまた別の機会に。

当時(1972、3年ごろ)プログレッシブ・ロックという呼び方がそれほど一般的ではなかったように思う。僕もいわゆる「ロック」として聴いていたけど、当時の僕が気に入るのはどれも「プログレ」の範疇に完全に入っていた。

さっき思い出しながら当時僕がどっぷりハマったプログレアルバムを発表順に並べてみた。
0306progressive.png
こうやってみると1970年代前半は僕のロックの趣味を決定づける時代だった。客観的に考えても、当時のプログレッシブ・ロックは個性的で強烈な音楽が目白押しだったということに改めて驚く。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもんで、僕には今聴いても十分聞き応えのある音楽ばかりに思えるし、こういう音楽が体に染み付いてしまっている。

こういうロックを聴いて育った中学高校時代だけど、結局音楽の趣味の合う友達は一人もできなかった。特にロックは子供が行けるコンサートもなく、弟もロックには興味を示さず、一人きりでレコードを聴くという状況がずっと続いた。それが大学に入って一気に変わってしまう。この頃のプログレを知ってる人なら上の年表に重要なバンドがひとつ抜けていることがわかると思う。大学で出会った友人からそのバンドを教えてもらうことになるんだけど、それもまた今度。


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