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ショスタコーヴィチ交響曲第15番の調性/無調の話 - その7 [音楽について]

ショスタコーヴィチの交響曲第15番を聴いてきた。
  1. 第1楽章第1主題第1楽章全体
  2. 第2楽章
  3. 第3楽章
  4. 第4楽章
  5. 調性に関するまとめ
今回、ショスタコーヴィチの引用に関する蛇足を追加して、15番の話はおしまいにする....

9  蛇足:ショスタコーヴィチの引用について

9.1  基本的な疑問として

和歌やそれに影響を受けたジャンルには「本歌取り」という技法がある。よく知られた歌の一部をそのまま使うことで、その世界を背景にしてその上に自分の表現を展開するもので、これは意図的な引用であって、受け手がオリジナルを知っていることを前提にしないと成り立たない。

引用ではないが、古いおとぎ噺や童謡にでてくる記述が、作られた当時では誰でも知ってる常識だったのに、今では忘れられてしまって意味が分からないことがある。本来謎でもなんでもなかったものが常識が違ってしまったせいで謎解きが必要になってしまう。

どちらにしても「ことば」が引用や謎の主体であって、それが何を意味しているか、対応する「ことば」を探すわけで、その作業は「ことば」の世界で閉じている。

ここで疑問を提示したい。音楽における「引用」や「謎」に対して同じように、対応する「ことば」を探すことにどこまで意味があるのか。

ショスタコーヴィチの先輩であるマーラーは
Wenn ich mein Erlebnis in Worten zusammenfassen könnte,
 würde ich gewiss keine Musik hierüber machen.
「私の経験を言葉で要約することができるなら、私がそれを音楽にすることはありえない」
言っている。僕は全くその通りだと思うし、ショスタコーヴィチも反対しないだろうと思う。すべてが言葉を使って伝達可能だと無意識的に了解してるけど、実はその範囲は大きくはない。音楽でしか伝達不能なものもあり、だからこそ音楽の存在意義がある。

9.2  ショスタコーヴィチの引用

ショスタコーヴィチの曲はどれも引用が多いので、まるで犯人探しのように、ここはこの曲から、こっちはあの曲から、とさかんに指摘される。そして引用された曲のタイトルや、あるいはその曲に歌詞でもついていようものなら、ああでもないこうでもない、とこじつけめいた蘊蓄が語れる。この15番もいつもにまして引用が多くて、ロッシーニストラヴィンスキーワーグナーワーグナーワーグナーマーラーハイドンなどなどたくさんの指摘を受けている。

しかし、僕は何度も書いているように、引用そのものに何か意味を見出そうというのは虚しい、と思っている。今回の15番の話でも、一般に言われているいくつかの「引用説」を否定した。例えば交響曲の13番第2楽章のように引用が明らかな場合もあるけど、その事実と作品そのものとはやはり別物だと僕は思っている。

例えば日本語版Wikipediaの交響曲5番の項では盛んに何度も何度も「カルメン」「カルメン」と言っているが、これではまるでショスタコーヴィチの音楽そのものよりも重要なことだと言ってるみたいである。重箱の隅をつついて飯のタネにしている音楽学者ならいいかもしれないけど、音楽を人生の糧にして日々を過ごしている我々にとってそれが何なのか。こんなものたまたま似ただけかもしれない。第1楽章の第2主題は、再現部でわかりやすく長調にしたらこうなっただけかもしれない。

さらにカルメンからの引用とされる部分の歌詞や、音名を並べて単語や人物の名前を連想して物語をこじつける、ということを見かけることがある。しかしこの音楽を聴きながら和歌の本歌取りのように引用元のカルメンを、さらにそこにある歌詞を思い浮かべられるだろうか。本体である交響曲第5番の音楽からはそういったことは、一切まったく伝わってこないし、僕にはそれを感じ取れないのが当たり前だと思われる(5番第1楽章の、あの人を押さえつけるようなフォルテシモのトゥッティを聴いてアドレナリンが放出された直後のちょっとほっとしたところになって、横から「これはカルメンなんだぜ」とか言われたらげっそりしないか? 僕だったらムカっときて殴る)。

つまり「音楽そのものからは遊離した、音楽そのものとは無関係な命題」を「これこそが主題である」と主張すること、がその音楽の望ましい聴き方だとは僕にはまったく思えない。そういった言説は、音楽を理解するためにはその音楽自体は不要だ、と言っているに等しいと僕には思える。

おそらく作曲家自身もなぜここにこれを引用したか的確に説明ができないに違いないし、説明できるぐらいなら音楽にせず言葉にしてしまった方が手っ取り早いはずで、さっきあげたマーラーの言葉を肯定するなら、5番に出てくる似たフレーズを「カルメン」「カルメン」と騒ぎ立てるのはその音楽そのものの存在意義を否定するのに等しい、と僕は思っている。

5番フィナーレの第1主題も、カルメンなんかより僕はマーラーの1番のフィナーレの主題を連想してしまう。音程は違うがリズムは同じだし、音楽の性格が近い(少なくともカルメンなんかよりずっと)と思うからである。しかし僕はそれに似ていたからと言ってだからどうだと言うつもりはさらさらない。これはショスタコーヴィチが自分の置かれた立場に真摯に向き合った結果生まれた主題だ、と思いながら聴いているからである。

9.3  ソビエト体制との関係

言葉にすることを当時の体制が許さなかった、「言えないことを音楽に隠した、あるいは託した」ように言われることがよくある。たしかに、ショスタコーヴィチは30歳で「プラウダ批判」をうけてボコボコにされて、その後職も奪われ、シベリア送りどころか一歩間違えば命がないかもしれないような状況にずっと置かれていた。それは少なくとも「雪解け」までの20年間毎日毎晩続き、さらにスターリンの死後も何かと矢面に立って毀誉褒貶をあびてきた。言いたいことが言えるような状況ではなかった。

日本語版Wikipediaの交響曲5番の項には、「おそらく作曲家は、このシンフォニーによって彼の立場を回復することが失敗した場合に、自分の秘密の信号がいつか将来的に解読されることを望んだ」なんてバッカじゃね、んなわけねーだろ。もし生き残ることができたら、こんどはそのせいで立場が悪くなるようなことを仕込むわけねーじゃん。ダイイングメッセージじゃあるまいし、回復に失敗したらそのあとは粛清があるだけだよ、死んだ後に解読されたってなーんの意味もねーんだよ。だいいち「秘密の信号」なんて言うけど、そのまんますぎるだろ、どこが「秘密」なんだよ.....

失礼、ショスタコーヴィチ本人の霊が一瞬、憑依してしまった。

本当に「音楽に隠した」としても、無人島に流れ着いた人が手紙を海に流すように、それを解読した誰かがある日とつぜん現れて劇的に彼の社会的な地位を回復する、なんてことはありえない。ショスタコーヴィチのプラウダ批判以降の人生において、重要人物の否定的なたった一言一筆で一転、命があぶなくなるという状況で、いつバレるかもわからない「王様の耳はロバの耳」みたいなことを40年も百曲以上にわたって繰り返していると、いずれ人格に支障をきたすと僕には思える。

つまり、そんなことをするぐらいならハナから黙っているなり、早々に諦めてやめるなり、逆に破滅覚悟で大声で言うなり、あるいは他人には絶対わからないところに封印してこっそり自分を慰めるなりしたほうが、少なくとも精神衛生上は望ましい。

9.4  ショスタコーヴィチの引用を言葉で探る意味

ショスタコーヴィチの引用の多さは当然、彼自身の皮肉なパロディ趣味があるけど、それとは別に20世紀に調性音楽を書こうとすると、どこか似た曲というのが過去に存在するのを避けるのは難しい(ロドリゴは「ハ長調でも独創的な曲は書ける」と言ったけど、彼には刈り取られていないスペイン音楽があった)。また、ショスタコーヴィチは研究熱心でもあったようなので、頭の中は音楽の歴史のアーカイブのような状態だったに違いなく、わざと似せることもあったかもしれないけど、必要な曲想を練るうちに、つい似てきてしまう、なんてこともあったのではないかと思う。

ショスタコーヴィチ自身にとっては意図的に引用してパロディにするのと、無意識にたまたま似てしまうのとが、我々が考えるほど大きな違いはなかったのではないか、と僕には思える。

そもそも、楽想は内的な必然性から形作られるもので、その根が深ければ深いほど意図的な制御とは別の次元で決まってしまうものではないだろうか。それは音楽に限らず絵画でも小説でもそうだと思う。

作曲家は、あるいは画家、小説家は、作品を設計する時点ではああしようこうしよう、といろいろ恣意的な操作を加えるだろうけど、書き進めるに従って、どうしてもこうにしかならない、なぜだかわからないけど、ここはこうでなければならない、という止むに止まれぬ衝動が作品に集積していくのではないか。

例えばショスタコーヴィチの9番の交響曲は初期設計では「9番」の名にふさわしく「今度の作品は管弦楽のトゥッティから始まる」「祖国の勝利と国民の偉大さをたたえる合唱交響曲を制作中である」と言っていた(日本語版Wikipediaから)が結局、我々の知っている、真逆の9番ができあがった。9番だけではなくあらゆる真摯な作品はそういうものではないか(9番初稿のスケッチの演奏がNaxosにある。僕のiTunesライブラリを漁るとあった。自分で買ったのを忘れていたらしい。弦ユニゾンのディミニシュトスケールの暗いテーマになっていて、トゥッティから始まっていない。これは第1楽章ではなくてスケルツォかもしれないけど)。

そして、作家自身の非常に個人的な深い奥底を探って探し当てたものだからこそ、そしてそれが言葉で語ることができず、音楽でしか表現できないものだからこそ、赤の他人の僕らでも作品を聴いて共感を覚えることができるのではないか。この15番もショスタコーヴィチに何かの意図があって引用しようとしたのではなく、なぜだかは言葉にできないけどここにはウィリアムテルが、ここにはワーグナーが必要だ、ここはこうでなければならない、と思ってそうしたのではないか。

引用があろうがなかろうが、僕らはそう言う音楽こそ聴きたいし、ショスタコーヴィチの音楽がそうだからこそ僕らは心惹かれるのである。音楽そのものとは別の意図や、謎解きのための引用なら僕らは彼の曲にこんなにも惹かれないだろうし、もしも本当にそれがあったなら音楽に対するその表層的、恣意的な操作を無意識のうちに僕らは感じ取るだろう、つまりは「駄作」という烙印を僕らは心の中で押すだろう、と思う。

そしてもっとはっきり言えば、僕は、ショスタコーヴィチの作品に限らずちょっとでも似たフレーズがあったら「引用」だとか「秘密の暗号」だとか言って、そこからありもしない物語をでっち上げて「これが作曲家の真意である」、「私こそが隠された秘密を見抜いたのだ」なんていうのが大っっっっっっっっ嫌いである。そしてそれは絵画でも同じである

「そうではない」と言う方ぜひ、「反論」をコメントにお願いします。

よろしく。
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